久留米伝説めぐり

久留米に伝えられている様々な伝説を紹介

久留米伝説めぐり

 

『童話 ペストの村にヒースの花咲く』(飯田まさみ著、青山ライフ出版、2020年6月、税込み1100円)を出版しました。

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        久 留 米 伝 説 め ぐ り

 

 久留米伝説めぐり   No.1 

       高牟礼の神さまと高良の神さま

 

 久留米は古代からずっと続いている歴史の長い土地で、いつも目にする山や川、折々にお参りする神社やお寺、ふと目にするお地蔵さんや塚などには、不思議な話、怖い話、面白い話が伝えられています。近年久留米の伝説を知るようになったばかりですが、知れば知るほど楽しくなってきています。そして、久留米に伝わるいろいろな伝説をあれこれと想像を巡らせながら再話を試みているところです。これから時折発行する予定でおりますので、ともに楽しんでいただけたら幸いです。

先ずは、高良大社二ノ鳥居近くにある高樹神社(御井町)に伝わるお話から始めましょう。

 

 はるかな昔、高良山のてっぺんに高牟礼という神さまが住んでいました。 神さまは、山の木ほども背がある、大きな神さまでした。毎日、木々や花、山の生きものたちと仲良く暮らしておりました。

 「こん山は、ほんなこて住み心地んよか。こんてっぺんからの見晴らしは、一番たい。広い平野がずーと続いとっとが、よう見ゆる。大きな川が大蛇んごつ、くねくねと曲がって流れよる。

 毎日、ほんによか気分ばい」

 ある日、見知らぬ神さまが訪ねてきました。

 「高牟礼の神どの。わしは、遠い遠いところから長い旅をしてきて、たいへん疲れておる。お前さまのそのてっぺんの家に一晩だけ泊めてもらえまいか。

そうすれば、疲れがとれ、明日からまた旅が続けられそうじゃ」

気のいい高牟礼の神さまは、旅の神さまを気の毒に思いました。

「そりゃー、お疲れのこつで。お前さまは、ここで一晩ゆっくり休まんの。

わしは、麓ん空き地で寝るこつにしよう」

高牟礼の神さまは、旅の神さまにてっぺんの自分の家を貸して、自分は山を下りました。そして、麓にある小高い空き地でぐっすりと眠りました。

ところが、旅の神さまは、一人になっても寝ようとしません。山の上に立って、じっと天を仰ぎました。それから、目を閉じ、真剣に祈り始めました。 

「天の神よ。わたしは、この地がたいへん気に入りました。山上に住んで、この大いなる平野と豊かな流れを守っていきたいと思います。

この山をわたしの住処にするために、どうか力をお貸しください」

すると、なんと不思議なことでしょう。途方もなく大きな石があっという間に山の周囲を取り囲んでしまいました。その石の壁は、誰にも越えられないほどの高さでした。

朝になって目が覚めた高牟礼の神さまは、てっぺんの自分の家に戻ろうと、山を登っていきました。ところが、山は高い石で囲まれていて、上には登れません。

高牟礼の神さまが山上を見上げると、一夜の宿を貸した旅の神さまが立っていました。

 「昨夜は、おかげでよく眠れた。お礼を申す。

 ただ、今日からは、わしがこの山の主じゃ。これらの石で囲まれたところは、我が領域じゃ。今後は、わしがこの山のてっぺんに住むことにする。そして、ここから、この地を守り続けるつもりじゃ」

 「そげーなわがよかごつ。ばってん、こげなん石は越えられんし。わしは、どこに住んだらよかじゃろかのう」

 気のやさしい高牟礼の神さまは困ってしまい、石の壁の前にじっと立ちすくんでいました。すると、今は高良山の主、高良の神さまとなった旅の神さまが言いました。

 「これからは、昨夜寝た麓の小さな空き地を住処にするがよい。あそこは、ほどよい高さで住み心地がよかろう」

 こうして、高牟礼の神さまは、高良山のてっぺんから追われて、麓に住むことになりました。その場所が、現在高樹神社があるところで、今も祀られ続けています。高牟礼の神さまは、追われてもなお麓からこの地を見守ってくれているのでしょう。

       2016年10月

       M.イイダ再話

       南吉朗読会協力

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  久留米伝説めぐり   No.2         

       筑紫君磐井、御井から豊前

                        

 古代、御井郡(現在の久留米市小郡市一帯)は磐井の乱の激戦地となり、豪族筑紫君磐井が最期を迎えたところだと言われています。高良山の麓には、磐井の清水(御井町)と呼ばれる湧水を水源とする岩井川(御井町)という小さな川が流れていて、磐井を想わせます。磐井はどのような最期を迎えたのでしょう。磐井の最期について、久留米から遠い豊前での磐井の姿も想像しながら、お話ししましょう。 

  

 6世紀の初め、日本は国家としてまだ統一されていませんでした。九州も豪族たちによって治められていました。筑紫一円を支配していたのは、八女を本拠地とする筑紫君磐井という豪族でした。

 その頃、日本を統一しようとしていた大和政権は、朝鮮半島にあった三つの国、高句麗新羅百済のうち百済と親しくして、支援していました。この方針に対して、新羅と親しかった磐井を中心とする九州の豪族たちは従わなかったと言われています。

 527年、物部麁(あら)鹿(か)火(い)と大伴金村が磐井討伐の命を受け、大和政権の軍勢が九州に攻めてきました。多くの九州の豪族たちが磐井のもとに集まり、大和軍対磐井軍の戦い、世にいう磐井の乱が起こりました。一年半もの間激しい戦いが続き、御井郡で決戦がありました。

 磐井は、広い平野を縦横無尽に駆けて戦いましたが、しだいに形勢不利となり、大和の兵士たちに高良山の麓まで追われてしまいました。気がつくと、家来たちともはぐれ、一人になっていました。

「ああ、いよいよ終わりの時が来たか。のどが渇いた。どこかに水はないか」

 磐井は、岩の間から流れる清水に気がつきました。

 「なんと美味い水だ」

 その時、木陰から土地の農夫とおぼしき男が手招きしました。

 「わしは、ここんにきん者じゃが、はよ逃げんの。よそから攻めっ来た敵に、負けてもらいとうなか。わしの野良着ば着たら、見つからんやろ」

 男は、自分の頭巾と上着を磐井に差し出しました。

 「ありがたい。いつかこの地に帰ってきたら、恩返ししようぞ」

 「わしら、そんときばいつまっでん待っとるばい」

 清水で生き返った磐井は、土地の者の恰好をして、山から山へ逃げていきました。そして、ついに、豊前国上膳県(かみみけのあがた)(現在の豊前市周辺)にある高い山にたどり着きました。

「もう大丈夫であろう。しばらくここに潜んでおくことにしよう。そのうち敵も諦めるだろう」    

大和の兵士たちは、執拗に磐井を追い求め、磐井が親しかった新羅からの渡来人が多くいた豊前にまで追っ手を差し向け、探し回りました。しかし、険しい峰の間で見失ってしまいました。

「ああ、いまいましい。折角ここまで追ってきたのに。どうしてくれよう」

兵士たちは八女に戻っても、怒りが収まりませんでした。そして腹いせに、磐井が自分のために造ったという大きな墳墓に並んでいる石人の腕を折ったり、石馬の頭を打ち落としたりしました。今も、岩戸山古墳(八女市)にその跡が残っています。

 いったい磐井はどこへ消えたのでしょう。豊前の山中に身を隠している間に、いつしか鬼になってしまったのかもしれません。磐井が上膳県に消えたちょうどその頃、犬ケ岳(豊前市)に鬼が住んでいました。そして、すぐ隣にある求菩提山豊前市)の麓に下りてきては村を荒らし回っていました。求菩提山には、祠を建てて神を祭っていた卜仙という呪術者がいました。卜仙は、村人たちが困っているのを見て、鬼を退治してやりました。そして、鬼の霊を祀って鎮めるため、求菩提山の頂上に神社を建てました。その神社は、鬼神社と呼ばれて、今もあります。この神社に祀られているのが、もしかしたら磐井かもしれないという推測があります。

 ところで、大和政権に反抗した磐井を祀る神社は、どこにもないということです。可哀想ですね。ただ、豊前の山奥の小さな鬼神社に祀られているのが、もしかしたら磐井かもしれないと思うと、少しほっとするような気がしませんか。  

       2016年11月

       M.イイダ再話

       南吉朗読会協力

 

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   久留米伝説めぐり    No.3

           背比べ石、神功皇后と田油津媛

                           

 高良大社に向かう二ノ鳥居をくぐって旧参道を登ると、ほどなく左手に大きな三角の石があります。「背比べ石」(御井町)という表示が立っていて、神功皇后朝鮮半島へ出兵の前に、背丈を比べて吉凶を占ったとの説明が書かれています。しかし、皇后が背比べしたのは、現在のみやま市辺りで勢力をもっていた田油津媛(たぶらつひめ)との戦いの時だという言い伝えもあります。古代、女性と女性がこの筑後で戦ったのでしょうか。二人はどういう女性だったのでしょう。二人の戦いについてお話しましょう。

 

 今から千七、八百年あまり前、日本はまだ国家として統一されていませんでした。あちこちに土蜘蛛と呼ばれる豪族がいて、大和政権に反抗し、天皇への朝貢を拒んでいました。蜘蛛のように手足が長く背が低くて、穴に住んでいると、大和の人々から思われていたため、こう呼ばれていました。実際は、大和の人々と変わらない姿でした。

 九州にもたくさんの土蜘蛛がおり、天皇や皇子が九州討伐に来ました。筑後の山門県(やまとのあがた)(現在のみやま市瀬高町辺り)で勢力をもっていた土蜘蛛の首長に田油津媛がおりました。彼女は、兄夏羽とともに大和政権に抵抗していました。田油津媛は、男の首長と変わらず兵の先頭に立って戦う、誇り高い指導者でした。いつも神出鬼没の戦いぶりで、大和軍の目をくらませていました。

 山門の人々、兵たちは、田油津媛の凛々しく勇ましい姿を見ると、自信が湧きました。

「ほんに、男んごたる媛さんじゃ。わしらん媛にゃ、誰も勝てんじゃろ」

「ああ、天皇さんでん負くっばい。大和ん者たちば追い払うちくるっじゃろ」

その頃、九州に軍勢を率いて来たのは、仲哀天皇でした。后の神功皇后、家来の武内宿祢もいっしょでした。ところが、九州討伐の途中、天皇が突然崩御してしまいました。それで天皇の代わりに神功皇后が軍を率い、九州討伐を進めていきました。ついに、筑後で勇名を馳せていた田油津媛のいる山門にやってきました。いよいよ決戦の時が近づきました。

ところが、大和の兵たちは田油津媛の噂を聞いて、怯えていました。

「土蜘蛛だといって、ばかにはできない。神功皇后は立派な皇后らしいが、田油津媛の方が強いのじゃないか。力も知恵も優れており、いつも勇ましく先頭で指揮をとっているそうじゃ」

「そんな強い相手と戦いたくないなあ。このまま皆で大和に帰ろう」

 敵を恐れて戦意を失った兵士たちをご覧になって、皇后は決意しました。

 「私はこれまで、陣の中にばかりいて、指揮をとっていた。兵たちに自信とやる気をつけるには、陣から出て、皆の先頭に立って戦うことが大切なのだ。田油津媛のように」

 皇后はこう考えるとすぐさま、飾りを付けていた長い髪をみずらに結い、優美な衣を着替え、活動的な姿になりました。

 皇后がさっそうとした姿を現すと、家来も兵士たちもどよめき、喜びの声をあげました。

武内宿祢が皇后に言いました。

 「皇后さまの凛々しいお姿を見て、兵士たちの士気がだいぶ上がりました。神々のご加護があることを願います」

神功皇后は、戦勝祈願のため、大勢の家来、兵を連れて、筑後で一番霊験あらたかという高良山に登りました。そして、天地の神々に祈りました。

下山の時、皇后は登りにはなかった背の高い、大きな石が道のわきに立っているのに気がつきました。皇后は、歓喜して大声で言いました。

「この石は、神さまのお示しに他ならない。この石より私の背が高ければ、我が軍が勝つ。しかし、低ければ、田油津媛が勝つということを示しておられるのだ」

どう見ても皇后より石の方が高いので、家来たちは戦いは負けだと、がっかりしました。ところが、皇后が石の横に立つと、不思議なことに、石がぐぐーっと低く沈み始めました。そして、皇后の方が背が高くなると、沈むのを止めました。

それを見ていた家来、兵たちは感嘆の声をあげました。

「神々は我らの味方だ。よーし、勇気を出して戦うぞ」

不思議な石に出会って勇気を得た兵士たちを従え、神功皇后は一気に田油津媛を攻めました。大和と山門、二つのやまと軍は、それぞれ勇ましく強い女の指揮のもと、激しく戦いました。   

そして、ついに、圧倒的な大軍の前に田油津媛は力尽き果てました。妹の討死を知って逃亡していた兄夏羽も、殺されて亡くなりました。

山門の人々は、田油津媛の死を知って、悲しみました。

神功皇后さんとも互角に戦うとやけん、ほんなこつ強かおなごやったのう。山門の誉れたい」

神功皇后も、田油津媛を称えて言いました。  

「敵ながら、あっぱれ。これまで多くの土蜘蛛たちと戦ってきたが、田油津媛ほど勇猛果敢な者はいなかった。大和にもあのようなつわものが欲しいものだ」

神功皇后が背を比べた石は、現在も「背比べ石」として高良山の旧参道にあります。そして、みやま市瀬高町にある「蜘蛛塚」は、皇后と果敢に戦った田油津媛のお墓ではないかと言われています。 

  

       2016年12月

       M.イイダ再話

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  久留米伝説めぐり   No.4

         蝉丸塔、移ろう心と一途な心 

                        

 高良大社一ノ鳥居をくぐって大社に向かうとほどなく左手に御井寺(御井町)という小ぢんまりとしたお寺があります。その境内の一角に蝉丸塔と呼ばれる宝篋印塔(ほうきょういんとう)(梵文の呪文を納める塔。供養塔、墓碑塔)が立っています。この塔には、塔石を削って相手に飲ませれば、浮気封じになるという俗信が伝わっているそうです。蝉丸と言えば、百人一首の「これやこの ゆくもかえるも わかれては 知るも知らぬも 逢坂の関」で有名な盲目の琵琶法師です。久留米と蝉丸、いったいどういう関わりがあるので

しょう。                   

 

 昔、高良山にはたくさんのお寺があって、参詣する人々で賑わっていました。その中に、盲目の琵琶法師たちにとって九州本山と言われるお寺があったそうです。琵琶法師というのは、琵琶を弾奏しながら経文を唱えたり物語を語ったりする盲目の僧の姿をした芸能者のことで、平安時代の中期ごろ起こったそうです。平家の亡霊たちに、『平家物語』壇の浦合戦の段を語って聞かせた耳なし芳一は有名です。

法師たちは、一年中琵琶を弾じながら九州のあちこちを回っていました。それでも、毎年正月には高良山に戻ってきていたということです。多くの琵琶法師たちの中に、ひときわ目立つ美男の琵琶法師がおりました。琵琶も抜きん出て上手で、朗々と響くすばらしい声をしていました。彼が語り始めると、皆、その美しい顔をじっと眺め、うっとりと聴き入りました。

「あん法師さんな、ほんにうまかねえ。昔京におった蝉丸っちゅう琵琶法師んごたる」

「あんた、蝉丸ば見たこつあるとね」

「いや。そりゃ昔ん人やけん、見たこつはなかばってん、分かるったい」

いつの間にか、彼は「蝉丸さん」、「蝉丸さん」と呼ばれるようになりました。「昔京にいた蝉丸っちゅう琵琶法師」というのは、平安前期にいた盲目の琵琶法師で、有名な歌人でもありました。高良山の蝉丸さんも盲目で、琵琶を弾じながら九州を放浪して回っていましたが、行く先々どこでも高い評判でした。美男の蝉丸さんは、特に女には大変な人気で、彼に一目会いたいという女たちがどこでも待ち受けていました。蝉丸さんもすっかりいい気持ちになり、あちこちで浮名を流していました。

ある年、蝉丸さんが高良山に帰って来た時、都から使いが来ました。彼の名声は京にまで響いていました。九州の田舎にはもったいない、御所でやんごとなき人々のために弾奏するようにというお達しでした。蝉丸さんは天にも昇るような気持ちで、とるものもとりあえず京へ行ってしまいました。

それからほどなく、一人の娘が蝉丸さんを尋ねてやってきました。長い旅をしてきたらしく、衣服は汚れ、髪は逆立ち乱れて、思いつめたような目つきをしていました。笹をもった子供たちにからかわれている姿を見て、村人たちは言いました。

「むぞかねえ。まだ十六、七かのう。あげんやつれてから」

「よか男の蝉丸さんのこつやけん、あちこちで女の気ば引いたっちゃろ」

「そいば本気にしてから、ここまで追うて来たんやのう」

村人たちは、娘を蝉丸さんのいたお寺に連れていきました。和尚さんが事情を聞くと、娘は豊前の生まれで、蝉丸さんと夫婦になる約束をしたということでした。和尚さんは、諦めさせようと、ちょうど目についた宝篋印塔を指さして言いました。

「娘さん、実は、蝉丸さんは去年ここに帰ってから間もなく、風邪がもとで死んでしもうたんじゃ。あの塔は、蝉丸さんの供養のために建てたものじゃ。

見たところ、あんたはまだ若い。親御さんもさぞかし心配しておられるじゃろう。早うお帰りなさい」

娘は、それを聞くと、わっと泣き伏しました。

「うちは、もう帰るところがねえんです。蝉丸さんのところに行くちゅうて、親から追い出されちしもうたんです。

蝉丸さんは、本当にうちを嫁にしてくるっち言うちくれました。うちは、ここにおって、蝉丸さんの供養をしてえです」

騙されたなどとはつゆ思わず、一途に想う娘の姿に、和尚さんも村人たちも言葉が出ませんでした。そして、蝉丸さんの罪作りな所行に怒りを覚え、口々に言いました。

「蝉丸さんな、ほんに罪な人やのう。こん塔の一部でん、都にいる蝉丸さんのところに持っていって、『こりゃ、おまえんお墓ばい』ちゅうてやりてえのう」

身一つで家を出てきた娘は、府中(御井町)の遊郭で遊女になりました。そして、亡くなるまで蝉丸さんの供養塔だと教えられたこの塔に参り続け、いつしか覚えた琵琶を弾いていたということです。

その後、この塔は蝉丸塔と呼ばれるようになり、塔石を削って相手に飲ませれば浮気封じ

になるという俗信が生まれました。御井寺を訪ねて、塔を見てみて下さい。白くなった部分は削られた跡のようです。今でも、秘かに削りに来る人がいるのでしょうか。

 

        2017年1月

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 久留米伝説めぐり    No.5

         大善寺、大楠に棲む蜷貝

 

 西鉄大牟田大善寺駅から歩いて5分のところにある御船山大善寺玉垂宮(大善寺町)は、遠い古代にさかのぼる起源をもつ、由緒ある神社で、高良大社と同じ高良玉垂命が祭られています。大きな楼門をくぐるとすぐ右手に、いかにも何か謂れのありそうな楠の大木があります。神社の境内で楠はよく目にしますが、不思議なことに、ここの楠には蜷(にな)貝(がい)が住んでおり、それもはるか神功皇后の頃からだと言われています。冬のある日、幹を探してみました。すると、何と木の皮のあちこちに長さ1~2センチ、太さ5ミリくらいの蜷貝がいくつも付いていました。冬によく生きているもの

です。いったいなぜ陸の楠に海の貝が住みついているのでしょう。それについては、以下のような話が伝わっています。

 

 今から千七、八百年ばかり昔、第十四代天皇として仲哀天皇という天皇がいたと言われています。その頃、日本はまだ国家として統一されておらず、九州では熊襲が反乱を起こしていました。仲哀天皇熊襲討伐のため、神功皇后といっしょに筑紫に遠征して来て、香椎宮福岡市東区香椎)を仮の御所に定め、滞在しました。その折、神功皇后に神託が下りました。それは、「熊襲討伐をやめ、海を渡って新羅を討つように」というものでした。ところが、その神託があって後も、新羅ではなく熊襲の討伐を進めていた仲哀天皇が突然崩御しました。

 神功皇后は家来の武内宿祢らに諮り、懐妊中でしたが、自ら先頭に立って新羅遠征を行いました。皇后は、幼い頃からたいへん聡明で容姿端麗でした。そればかりでなく、神のお告げを聞くことのできる不思議な力を持っていました。兵士を集め船を造り、皇后は新羅に向けて出発しました。皇后軍の勢いに圧倒された新羅は、戦うことなく大和に朝貢することになりました。そして、新羅ばかりでなく高句麗百済までが朝貢を約束しました。

 神功皇后は大和に向けて、船を進めていきました。

「ああ、うれしいことじゃ。この度は戦いもなく勝利を得ることができた。わが大和の兵士たちも新羅の兵士たちも、命を失わずにすんだ。神々がお守りくださったのだ。

潮の満ち干を司る海神よ、我らをお守りください。どうか無事に大和に帰還できますように」

 皇后は、新羅遠征の前に海神から授かっていた潮干珠、潮満珠に祈りました。それは、潮を満ちさせる力と潮を干させる力をもつ不思議な珠でした。

 その時です。突然大声で急報がありました。

 「新羅ん船が来よるぞー。何十も何百も来るぞー」

 ちょうど満ち潮の波に乗って、新羅の船がどんどん迫って来ました。兵士たちは、大急ぎで戦いの準備をしました。いよいよ船が近づいてきて、今にも敵の兵士たちが乗り込んできそうです。その時です。神功皇后が、潮干珠を満ちてくる海に向かって投げ込みました。すると、不思議なことに、潮が見る間に引き始めました。そして、波に乗って進んでいた新羅の船は、次々にひっくり返っていきました。海に放り出された兵士たちは、白い波をむなしくつかみながら、海中に消えていきました。

 ところが、なぜか皇后軍の船は一隻もひっくり返りません。潮が引いてできた干潟の上に、しっかりと立っています。

 「どげんしたっちゃろか。潮が引いたら、船は倒るるはずばってん」

 「こりゃー、すごか。船べりや船底に蜷貝の引っ付いとる。何百万何千万ちゅう蜷貝が」

 「そいで船はひっくり返らんじゃったとやろ」

 兵士たちは皆ただただ驚いて、ずっと引いて彼方に見える海に向かって手を合わせるばかりでした。

 神功皇后も、海の方に向かって海神に感謝の祈りを捧げました。

 「潮干珠を授けてくださった海神よ。我らをお救い下さり、ありがとうございました。そして、万物に命を授けてくださる神々よ。感謝いたします。無数の蜷貝が、小さな身でありながら、大きな船を守ってくれました。おかげで我が兵士たちの命は助かりました。

 でも、新羅の兵士たちの命が失われてしまいました。船に付いている蜷貝ほども多くの命が海に吞み込まれてしまいました。ほんとうに悲しいことです」

 その後、神功皇后の船は無事に現在の玉垂宮の地に着きました。船を停めるため、そこに立っていた一本の大きな楠に繋ぎました。感謝の印として、おびただしく付いていた蜷貝もそのまま大切に引き上げました。御船山大善寺玉垂宮という呼び名は、ここから起こったものです。

 ほどなく、神功皇后は宇美で皇子(後の応神天皇)を出産し、大和に帰りました。それから、新羅遠征の武勇伝が語り伝えられていきました。大善寺の蜷貝は船が繋がれた楠に移り、生き続けました。それを見て、土地の人々は言いました。

 「蜷貝は、海で命を失った新羅ん兵士たちの霊ばい」

 「兵士どんな貝になって、楠といっしょに今も生きとるばい」

 大善寺玉垂宮では、蜷貝を川に解き放ち、生命に感謝し豊穣を願う放生会が毎年秋に行われています。それには、遥かな昔有明海の沖で失われた異国の兵士たちに対する供養の気持ちも込められているのでしょう。

        2017年2月

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  久留米伝説めぐり    No.6

         古代三潴の鵞鳥事件

 

 古代、三潴地方は、水沼(みぬまの)君(きみ)(水間君)という豪族 に支配されていたということです。大善寺の御塚、権現塚古墳(大善寺)は、水沼君の奥津城で、その広大さは勢力の大きさを示しています。弥生時代中期以降から、この地方の水田開拓は既に始められていたそうで、現在の穀倉地帯としての繁栄の基礎ははるか古代にあったといえます。そしてその頃、有明海は三潴あたりまで湾入しており、この地は大陸に通じる拠点だったそうです。大地の恵みと地の利のおかげで、水沼君は大いに栄えたと思われます。水沼という名は、一帯に海の浅瀬が入り込んで、湿地帯で沼沢が広がっていたことから付けられたのでしょう。

 現代人も食べる菱の実はおそらく古代にもあり、有明沿岸から内陸に広がる沼沢は、夏から秋には菱の葉で覆われていたことでしょう。菱の実は、秋になると膨らみますが、それを食べに飛んでくるのが、ヒシクイ(鴻。ガンの一種。天然記念物で準絶滅危惧種)という鳥です。水沼君について、菱の実を食べるヒシクイにまつわる話が残っております。久留米市に以前あった地名鳥飼(旧三潴郡鳥飼村)の由来話でもあります。一体どういう話でしょう。

 

 古代、水沼(三潴)の地を治めていたのは、水沼君という豪族でした。その頃、三潴は有明海に面しており、広い干潟には貝や魚を捕りに海鳥が訪れていました。そして、内陸の沼や池、川には、葦や真菰、菱などが繁り、水鳥が飛来していました。沼沢に生える水草の中でも、菱はその実が美味で、滋養強壮、消化などに効く食べ物として重宝がられ、人々はせっせと採って食べていました。菱は、人間だけでなくヒシクイ(鴻)という鳥の好物でもありました。

 夏になると、水面を覆った菱の葉に小さな白い花が咲き、秋から晩秋に実が熟してきます。すると、ヒシクイたちが実を食べに「グワン、グワン」と鳴いて飛んでくるのです。ヒシクイたちに負けじと、土地の農夫たちも木の舟に乗って、大きく膨らんだ実を採るのでした。

 「こりゃ、ようふくれち、美味しかごたる。今夜はご馳走ばい」

 「ヒシクイに取られんうちに、はよ採らにゃ」

 水沼君は、ヒシクイの他にも飛んでくるたくさんの鳥を決まった場所に囲って飼っていました。食料にしたり、暮らしに利用したりしていたのでしょう。その地域は鳥飼と呼ばれ、鳥の世話をする鳥飼人と呼ばれる人たちが住んでいました。

 五世紀後半治めていた雄略天皇は大陸とよく交流しており、中国の呉にもたびたび使節を派遣していたそうです。水沼君は天皇に仕え、大陸から有明海に上陸する使者たちを迎えていたようです。

ある年、呉から鵞鳥が二羽天皇に献上されてきました。その頃、鵞鳥はとても珍しいものでした。水沼君は、鵞鳥にも使者にも粗相のないように気をつけていました。ところが、ちょっと油断をした隙に、水沼君の飼っていた犬が、鵞鳥を喰い殺してしまいました。その事件はすぐに水沼じゅうに広まりました。

「おおごつの起こったばい。大君さんな、えろう気が短かちゅう噂たい」

「せっかく呉からもらいなさった鳥を殺されち、水沼君様ば許しなさらんやろ」

「水沼君様が開拓に熱心なおかげで、湿地がどんどん田んぼになっち、稲の出来もようなった。そんだけじゃなか。沼やら川に飛んで来る鳥ば捕まえち、ようけ飼うて、いろんな役にたっとるげな。」

「大君さんな、えろう乱暴ちゅう話たい。水沼君様が殺されたりしたら、困るばい。水沼君様のもとで、こんまま水沼ん地が無事に続いてほしかなあ」

天皇への献上物を殺してしまうという大罪をどうしたら許してもらえるか、水沼君は悩んでいました。ふと外を見ると、広い沼地一面に菱が繁っていました。そして、大きな褐色の鳥たちがたくさん水に浮きながら長い首を曲げ嘴で葉をつついていました。水沼君は家来に尋ねました。

「あの鳥たちは、何をしているのか」

「あれはヒシクイという鳥で、ちょうど今時分秋に熟す菱の実を取って食べているのです」

「わしも食べたことがある。あれは確かに美味じゃな」

「この水沼の地には菱の実が多く採れます。ヒシクイはそれを目当てに飛んでくるのです」

「ああ、それだ。それにしよう。ヒシクイはきっと山に囲まれた大和では珍しいだろう。鵞鳥のお詫びに、ヒシクイを差し上げよう。十羽ほど献上しよう」

「それは、よいお考えだと思います。ヒシクイとともに、鳥飼人も差し出されるとよいでしょう。鳥飼には、熟練の鳥飼人が何人もおります」

水沼君はお詫びの文をしたため、鳥飼人をつけてヒシクイ十羽を雄略天皇に献上しました。幸いなことに、天皇からは許しを得てお咎めもなく、水沼君はそれまでと変わらず、天皇に仕えることとなりました。水沼の人々も、安心して田んぼを作ったり、菱の実を取ったりして暮らしました。

ヒシクイのおかげで、水沼君様もわしらも助かったなあ」

「こいからうんと湿地ば開拓して、田んぼば広げにゃならん。そいで、稲ばいっぱい作るったい」

鳥飼人たちは、その後大和で配置され、鳥飼の仕事をしたということです。古い書物の中にも鳥飼という筑後の地名が載っており、大正6年(1917年)久留米市編入されるまでは、津福や津福今、梅満、白山、大石、長門石などの地域は三潴郡鳥飼村と称されていました。おそらくこの地域には遠い昔鳥飼人たちが住み、鳥の世話をしていたのでしょう。秋になると三潴のクリークで今も見られる、はんぎりに乗った菱の実採りの光景は、きっとはるかな昔水沼君の頃にも見られていたことでしょう。 

       2017年3月

       M.イイダ再話

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  久留米伝説だより    No.7

      大善寺の鬼神、桜桃沈輪

 

 日本の三大火祭りの一つ、大善寺玉垂宮(久留米市大善寺町)の鬼夜は、一度見たら忘れられない勇壮なお祭りです。毎年1月7日夜、点火された長さ13メートル、重さ

1.2トンという大松明6本を、締め込み姿の若者たちが支えながら火の粉を散らして本殿の周りを廻る大松明廻しには、全国から見物客が訪れています。40年ほど前、一

度見に行ったことがありますが、確かにあまりの迫力にただ圧倒されるばかりだった記憶があります。鬼夜は、松明で鬼を追い払う神事ですが、日本一と言われるほどの巨大な松明が必要とは、いったいどんな鬼なのでしょう。大善寺に伝わる鬼の伝説について、想像をまじえながらお話しましょう。 

 

 今から千六百年ぐらい昔、大和政権が土着の豪族を征服して、日本が国家として統一されかかっていた頃のことです。九州にも各地に豪族がいましたが、筑後の三潴に葦連(あしのむらじ)という豪族がいました。筑後の人々は、葦連のもと平穏に暮らしておりました。

 ところが、筑後川の対岸、肥前国水上(佐賀市大和町)に住む桜桃沈(ゆすらちんちん)輪(りん)という豪族が、しょっちゅう川を渡って来ては、田畑を荒らしたり、乱暴狼藉を働いたりして、葦連に抵抗するようになりました。沈輪は、遠い祖先が中国の呉(紀元前5,6世紀に存在した中国春秋時代の国)からやって来たと聞いたことがあり、それを誇りに思っていました。そして、海を渡って外国と手を結ぼうとしていました。

 「あん葦連よか、おりの方がよっぽど強かばい。連ん奴は大和ん言いなりで、腹ん立つ。大和ちゅうたっちゃ、おりの先祖よか後から来たもんのくせして。

 おりのこつば、皆、桜桃沈輪っち呼ぶばってん、よか名前じゃ。赤か実のなる桃色のかわいらしか花ん咲く桜桃(ゆすら)ちゅう木は、何でん中国から来たらしか。おりにぴったりばい。ただ、沈輪ちゅうとは、木ば揺すったら実が落ちるっちいうて、付けたとかも知れんばってん、気に食わん」

 桜桃という名が気に入った沈輪は、桜桃の花の入れ墨をし、一族の者たちもそれに倣っていました。沈輪の一族は、水に潜って魚を獲るのが得意でした。

 沈輪は、川を越え、海に潜り、山を走り、まさに神出鬼没で、葦連の手には追えませんでした。それで、とうとう大和から武内宿祢(景行天皇から仁徳天皇まで5代にわたって大和朝廷に仕えたという記紀伝承上の人物。沈輪討伐は、籐大臣によるものとも伝えられている)が沈輪征伐のため筑後に派遣されました。葦連から話を聞いた宿祢は、真正面から戦って到底勝てる相手ではないと思い、ある謀を巡らし、沈輪を三潴に招待することにしました。

 「沈輪よ。お前の強さには恐れ入った。筑後の地はお前にやるから、もう戦いは止めて、仲良くしようではないか。仲直りのしるしに、今宵我が館で宴会を開きたい。お前だけでなく、お前と同じように強い家来たちも皆招きたい。酒に肴、たくさん用意しているので、ぜひ皆で出かけて来ないか」

 根が単純で人を信じやすい沈輪は、宿祢の言葉に喜び、家来たちを引き連れて、三潴にやって来ました。

 「大和よか、おりの方がやっぱ強かったばい。桜桃ん木が守ってくれたんかのう。おりらに酒ば飲ませてくれち、宿祢もよか奴ばい。こりからは、もう戦ば止めち、川上と同じごつ筑後も治むるたい」

 宿祢たちは、何だかだとうまいことを言ってはどんどん酒を勧めました。そして、とうとう沈輪も家来も全員を酔いつぶれさせました。そこに、隠れていた兵たちが斬り込み、殺してしまいました。

 ところが、どうしても沈輪だけ姿が見えません。その時、館の近くにある大池に気づいた宿祢が兵たちに命じました。

 「沈輪はあの池の中だ。大松明であの池の周りを囲んで、いっせいに鉾で突き続けるのだ」

 水中に潜んでいた沈輪は、堪えきれずに池から飛び上がり、突きかかってくる鉾を掴んで言いました。

 「卑怯もん!武内宿祢、葦連。よくも騙したな。こん恨みは、未来永劫忘れんからな」

 葦連に刎ねられた沈輪の首は、空中高く舞い上がって逃げようとしました。そこに宿祢が矢を放ち、射落としてしまいました。首は集めた茅で焼かれました。こうして桜桃沈輪はついに滅んだのでした。宿祢は、筑後高村(大善寺の古い地名)の地に宮を建ました。これが大善寺玉垂宮の初めで、現在多くの人々が見に訪れる玉垂宮の鬼夜には、この戦いの有様が示されているそうです。

 それから三百年ほど経った頃のことです。唐から帰った安泰和尚が勅命を受けて、玉垂宮の神宮寺(神社に付属して置かれた寺院)として高法寺(後に大善寺と改称)を開基しました。そころが、その翌年のある夜、安泰和尚と、葦連の子孫の吉山久運がいると、大音響とともに空いっぱい雷のような恐ろしい声が響き渡りました。

 「おりは、三百年前、武内宿祢と葦連に騙されて、首ば刎ねられ、焼かれちしもうた桜桃沈輪の霊じゃ。おりは、三百年の恨みでこうして鬼神になった。おかげで、こん筑後に水害、凶作、なんでん災いば起こす術ば身に付くるこつがでけた。安泰に久運。こりから覚悟ばしとけよ」

安泰和尚は、初めて沈輪の霊がまだ弔われていないことに気がつきました。

 「沈輪と言えば、昔、川を越えて来ては筑後を荒らし回ったため、退治された水上の豪族だと聞いている。いくら敵とはいえ、三百年もの間、うち滅ぼしたまま霊を弔うこともなくほったらかしにしておくとは。その祟りで沈輪の霊は悪霊になってしまい、鬼神として現れたにちがいない。

 これから、筑後に災いが降りかかるかもしれん」

 安泰和尚は、それから幾夜も、久運たちに松明で闇夜を照らさせ、四方八方を矢で射払わせました。そして、一心に弔いのお経を唱え、沈輪の霊が鎮まるよう祈りました。こうして、弔い続けているうちに、だんだん鬼神の声が小さくなり、やがて、悪霊の気配も消えてしまいました。この後毎年、玉垂宮では、沈輪の霊を供養するようになり、これが現在の鬼夜の起源だと言われています。筑後川を舞台に暴れまわった桜桃沈輪ですが、今は鬼神となって祭られ、災いが起こらないように、五穀豊穣をもたらすように、この筑後の地を守ってくれているのです。こういう鬼夜の謂われを知ると、桜桃の花の咲く頃には、桜桃沈輪の話が思い出されるかもしれませんね。

        2017年4月

        M.イイダ再話

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  久留米伝説だより    No.8

           大石神社の大石

 

 久留米に住むようになって気がついたのですが、久留米では古賀さんや石橋さん、そして、大石さんによくお目にかかります。大石は苗字だけではなく、地名にもなっています。大石神社(大石町速水)のことを知るまでは、何も考えませんでしたが、どうやら久留米の大石さんの源は、大石神社にありそうです。日本人は石を大切にし、石庭や盆栽などの芸術を生み出し、しばしば神社のご神体としても崇めます。大石神社には、その名のとおり大きな石が祭られており、民俗学者柳田国男(1875-1962)が袂(たもと)石(いし)の伝説が伝わる神社として取り上げ(『日本の伝説』)、全国的にも有名なようです。袂石などという言葉は、聞きなれませんが、いったいどういう石なのでしょう。大石神社の不思議な石の言い伝えを紹介しましょう。

 

 昔、比丘尼(中世から近世、尼の姿をして処方を遊行した一種の芸人)と呼ばれ、諸国をめぐっていた放浪の女性たちがいました。伊勢神宮天照大神熊野権現の功徳を説きながら旅をしていました。お札を売ったり、病気治癒のおまじないをしたりする者もいれば、小唄などの芸能をしたり、遊女になったりする者もいました。 

 ある冬のたそがれのことでした。家もまばらな今の大石町のあたりに、一人の年老いた比丘尼が、どこからかやってきました。比丘尼は、痩せて腰の曲がった体によれよれの着物をまとい、杖を突きながら歩いていました。

そこに、小さな男の子を連れた女の人が通りかかりました。子どもは、「痛え、痛え」と泣いています。

 「どうしたかの」

 「こん頃ずっと歯痛がひどくて、治らんで、いつも泣いとる」

 「それは、可哀想なことじゃ。ちょっとおまじないをしてやろう。じきに治るからな」

 尼さんは、そこに立っていた大きな木の根元に、小さな祠をさっと設えました。そして、袂から小石を取り出し、祠に納めると、何やら呪文を唱えました。すると、男の子は急に機嫌がよくなって笑顔になりました。

 「もう痛うねえ。ようなった」

 母親は大喜びで家に帰り、近所の人たちに尼さんと小石の話をしました。しかし、誰も信じません。女の人は人々を尼さんのところに連れて行きました。ところが、尼さんの姿は消えていました。そして、祠と石だけが残っていました。

 それから一年ほど経った冬の夕暮れ、またあの比丘尼がどこからか村にやって来ました。比丘尼は、前年置いた祠近くの一軒の家を訪ねました。家の主は貧しい百姓でしたが、親切で信心深い人でした。比丘尼は百姓に言いました。

 「わしは、これまで長い間、霊験あらたかな天照大神の功徳を説いてきた者じゃ。大神のご神体をいつも袂に入れて旅をしてきた。去年、ここの祠に納めたのは、そのご神体なのじゃ。もう老い先短い身、これからはこの地で祀ってほしくて、納めていたのじゃ。

 あんたに頼みがある。今後は、わしに代わって、村の人たちといっしょにご神体を祀ってほしいのじゃが」

 百姓は気味悪く思いましたが、年を取って見るからに弱々し気な比丘尼を可哀想に思いました。

 「あんたも苦労せらっしゃったばいのう。わしらでよかなら、代わりに祀ろうばってん」 

 「ご神体の石は、今卵ぐらいの大きさしかないが、毎日参り続けると、どんどん太くなられる。そして、参った者の家は栄えて、良いことが続く」

 比丘尼はそう言うと、たそがれの中、杖の音を響かせながら消えていきました。

 百姓は早速、村人たちに話をしましたが、誰も信じようとしません。

 「石が太うなるこつなんかあるはずんなか。お前は人がよかけん、騙されたっちゃ」

 それでも百姓は、比丘尼に言われたとおり、毎日祠に参りました。ある年のこと、日照りが続き、みな不作で、食べるものもなく、そのせいで、病気になったり亡くなったりする者が出るほどでした。ところが、祠に参っていた百姓の田畑だけは豊作で、家族も元気でした。

 村の者があるとき、祠の前を通ってびっくりしました。祠の中の小さな石が、いつの間にか大きくなって、祠からはみ出していたのです。百姓は毎日参っていたので、太くなっていたことに気がつきませんでした。村人たちは、口々に言いました。

 「やっぱ、あん石は神様ん石やったばい。あいつんとこが豊作なんは、毎日石に参るからやろ」

 「こりからは、わしらも参ろう。そしたら、あいつと同じごつ作物の出来がようなるばい」

 石に参った者たちの田畑は出来がよくなりました。それで、村の人々ばかりでなく、近隣の人たちも大勢この石に参るようになりました。

この評判を聞いた有馬の初代の殿様豊氏公も、不思議な石の話に感心して、大きくなった石が納まる広いお堂を寄付されました。石は、その後もどんどん太くなり続け、お堂も次々に建て替えられ、とうとう現在のような立派な社殿になりました。石は、三百年くらい前もまだ太くなり続けていて、その頃一丈(約三メートル)ほどにもなっていたという記録が残っているそうです。

 この石を祀った神社は、地元では大石神社として親しまれていますが、別名伊勢天(いせあま)照(てらす)御祖(みおや)神社(じんじゃ)ともいいます。年老いた比丘尼が大切にしていた袂の小石は、やはり天照大神のご神体だったのかもしれません。

 大石神社に参拝すると、筑後川の水で洗われたという石がたくさん入った祈願神石・霊石箱が置かれています。その石に願い事を書いて納めると、願いが適うそうです。この袂石の伝説を思い出しながら、お願いしてみてはいかがでしょう。

       2017年5月

       M.イイダ再話

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   久留米伝説だより    No.9

        寂源さんと古月さん、白蛇の不思議

 

 久留米の自然と言ってすぐに思い浮かぶのは、筑後川高良山でしょう。筑後川筑後平野に豊かな実りをもたらす源として、高良山高良大社を信仰の中心として、人々の暮らしを支えてきました。古代からの長い歴史を持つ高良大社御井町)は、当然のことながら歴史的に盛衰があって、特に戦国時代、戦乱のための衰退ぶりはひどかった

そうです。それを立て直したのが第五十代座主寂源僧正(1630-96)で、高良山中興の祖として名を残しています。また、江戸時代の高僧古月禅師(1667-1751)は、藩主有馬頼徸(よりゆき)から久留米に招かれ、高良山近くにお寺を開山しました。この二人は、高徳の僧として慕われ、寂源さん、古月和尚さんと呼ばれたりしていますが、二人にはともに白蛇にまつわる伝説が伝えられています。白蛇とお坊さん、どういうお話でしょう。 

 高良山は、古代から人々に崇められていました。そして、高良玉垂命を祀った神社ができ、やがて神宮寺(神仏混淆のあらわれとして、神社に付随して置かれた寺院のこと)も建立され、神仏習合の山として栄えました。山を治めたのは、座主と呼ばれる僧侶でしたが、戦国時代、高良山に陣を敷いた大友宗麟豊臣秀吉、また筑後領主となった小早川秀包らによって、高良山は荒廃し、白鳳時代から世襲されていた座主の伝統は中断されてしまいました。

 江戸時代の初め、高良山は神社も寂れ、神宮寺として隆盛を誇っていた高隆寺はすっかり荒れていました。そこに、第五十代座主として任命されて、京都賀茂神社の神官であった寂源さんが赴任してきました。学問、詩歌に優れ、聡明で誠実な人柄であった寂源さんは、古代から人々の信仰を集めていた高良山が荒廃していることに心を痛めました。

 「戦国の世に、高良山は戦いの場となってしまい、山林もすっかり荒れてしまっておる。昔は、聖域として守られ、人々に崇敬されておったというに、今は参拝者も少ない。先ずは、山林を再生することじゃ」

 寂源さんは、高良山の植林を計画し、高良山に緑をとり戻しました。そして、放置されていた神籠石の価値を見いだし、発掘保存の作業にも取り組みました。高良山の自然を愛した寂源は、高良山の景勝十か所を選び「高良山十景」と称して、京都の歌人たちに詩歌を作ってもらい、また自らも詠みました。

 「寂源さんな京都から来らっしゃったげなばってん、ほんに高良山ば大事にしてくれち、ありがたかこつ。おかげで、また高良山が賑おうごつなった」

 ある日、寂源さんは山道を上っていました。眼下に広がる平野には、筑後川が大蛇のようにくねくねと流れていました。

 「近ごろ雨が全然降らんで、田畑が干上がっておる。百姓たちはさぞ困っておるじゃろう。じゃが、筑後川だけは変わらずに豊かに水が流れておる」

ふと足元を見ると、白い蛇がちょろちょろと這っていました。ほんの十四、五センチばかりの蛇です。よく見ると、頭に小さな耳が付いています。

「耳のある蛇とは、珍しい。神さまのお使いじゃろうか。

おいおい、蛇や。ここは山ん中。うろうろしておると、鳥や獣に食われてしまうぞ」

寂源さんは小さな蛇をそっと拾い上げ、衣の袖に入れて、寺に持ち帰りました。そして、蛇は水の中が一番だと思い、寺の庭の水盤の中に放してやりました。すると、ほどなく空が黒く曇り、一面雲が湧き上がり、突然すべてを押し流してしまうかのように雨が降り始めました。寂源さんが天気の急変に驚き、呆然と外を見ていると、何と庭の水盤にいた白蛇が雲に乗って、昇り始めました。そして、見る間に大きな龍に変身し、空を駆け、はるかに流れる筑後川と一つになって消えました。

この恵みの雨のおかげで、日照りで乾いていた田畑は潤い、百姓たちはほっと一息つくことができました。寂源さんと白蛇の話は、いつの間にか広まりました。

「寂源さんのおかげで、助かった。白蛇は、筑後川ば守っちくれとる水神さまのお使いじゃったんやろ」

こうして寂源さんが座主になって、高良山はみごとに復活し、再び筑後の人々の信仰を集めるようになったのでした。

それから百年ほど経った延享(1744-48)の頃、また不思議な白い蛇が現れました。今度は、高良山を下った麓の村でした。日向国に古月禅師という臨済宗の僧がいました。禅師は、その学識の深さ、徳高く高潔で親しみやすい人柄のため古月和尚さんと呼ばれておりました。東の白隠、西の古月と言われて、かの白隠禅師(1685-1768。臨済宗中興の祖と称され、臨済宗を立て直し、多くの信者を集めた)と並び称されてもいたと言われています。第七代藩主有馬頼徸は高名な禅師に祈祷寺を建立してもらおうと、古月和尚さんに来久を懇請しました。和尚さんは、高齢をおして、久留米に移り住むこととなりました。藩主はもちろん久留米の人々は皆、大喜びで迎えたそうです。

古月和尚さんは、建立の場所を求めてあちこち探し回りました。高良山の麓の村々は、その頃まだ田畑ばかりののどかなところでした。和尚さんと藩の役人が野道を歩いていると、道の真ん中に突然白いものが二つ現れました。よく見ると、小さな白蛇と真っ白な狐でした。蛇と狐は、じっと和尚さんたちの方を見つめたかと思うと、ちょろちょろ、ぴょんぴょんと進み始めました。二人が後についていくと、野道の先のこんもりとした森の前で止まり、振り返ったかと思うと、ぱっと姿を消しました。

古月禅師と役人は、思わず顔を見合わせ、うなずき合いました。

「やっと見つかったのう。ここがお寺を建てる場所だったんじゃな」

「蛇も狐も神さまのお使いち言いますけん、あん白蛇と白狐は私らを導いてくれたんですね。きっと昔からこん土地ば守ってきたんでしょう」

「昔、高良山で寂源さんに白蛇が現れたとか聞いたことがある。さっきの蛇は、その子孫かもしれんのう」

ほどなくして、古月和尚さんが探し回って見つけたこの地にお寺が開山されました。これが、慈雲山福聚寺(合川町)で、久留米大学御井町)近くの住宅地の中に静かに佇んでいます。

私たちがよく訪れる神社や、近くのお寺に、こうした白蛇とお坊さんとの神秘的な出会いの伝説があるなんて、本当に驚かされます。時には、機械化された無機的な現代生活の背後にある神秘と不思議を覗いてみるのも、楽しいですね。

 

       2017年6,7月

       M.イイダ再話

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  久留米伝説めぐり   No.10

            天神様と北野の河童

 

 京都の北野天満宮京都市上京区馬喰町)は、太宰府天満宮と共に、菅原道真(845-903)を天神様としてまつる天満宮の総本社として有名ですが、この筑後にもそっくり同じ名前の北野天満宮久留米市北野町)があります。秋に賑わうコスモス街道に近いので、昔訪ねたことがあります。その時はまったく知りませんでしたが、ここには、河童の手が社宝として安置されていて、25年に一度公開されているそうです。久留米に移ってきて間もなく、40年ばかり前、何かの会場で河童の手を見た記憶があります。あれは、どこの河童の手だったのでしょうか。天神様と筑後の北野、そして河童、どういうつながりがあるのでしょう。北野に伝わる河童の伝説を辿ってみましょう。 

 学問の神様、天神様として名高い菅原道真を祭る天満宮は、あちこちにありますが、全国ではおよそ一万二千社にものぼるそうです。受験前、一度はどこかの天満宮にお参りした経験を多くの日本人は持っています。筑後北野天満宮にも、昔から地元の人々がお参りしてきたことでしょう。大宰府に左遷された道真が北野にまつられたのは、どういう訳からでしょう。

 平安時代の初め頃、道真は、代々優れた学者を出していた菅原是善の子として生まれました。子どもの頃から神童と言われるほど賢く、詩歌の才に溢れ、学問に努めました。その結果、三十二歳で早くも文章博士(古代の大学で詩文と歴史を教授した教官で、道真の頃は定員二人であった)となりました。

 その頃朝廷では、藤原氏が権力をほしいままにしていた摂関政治が行われていました。それを刷新するため、自ら上皇となって醍醐天皇に譲位した宇多天皇は、学識豊かな道真を左大臣に任命して右大臣の藤原時平を補佐させました。藤原氏は道真を恐れ、排斥しようとしました。時平の讒言を信じた醍醐天皇は、道真を大宰権帥に左遷しました。

 901年(延喜元年)、妻や息子、娘たちと別れた道真は、二人の幼児とわずかの供の者を連れ、九州へと下りました。道真は、難波から筑紫に向かって海路を行きました。五十七歳の道真は、脚気のため歩行も困難で、時に藤原氏が差し向けた追っ手からも狙われましたが、行く先々で、土地の人に助けられたり、不思議なものとの出会いで難を逃れたりしました。穏やかな瀬戸内海から波高い周防灘に出たときには、暴風のため漂流し、漁船に助けられ、椎田の浜(築上郡築上町)に上陸することができました。村人は浜辺に舟の綱を敷いて、道真に座ってもらいました。この地には、綱敷天満宮築上郡築上町)が建てられています。

その後、中津、日田を通って筑後川を下り、北野の岸辺に差しかかりました。

「ちょうど良い入り江がある。一面葦が生えていて、流れも清らかだ。あそこに上陸して、一休みしよう。追っ手もここまで来ることはなかろう」

岸に上がって、一服しようとしたその時、葦の間に潜んでいた追っ手が現れ、襲ってきました。道真もお供の者も懸命に逃げました。すると、川の中から黒い手が出てきて、追っ手たちを引きずり込み始めました。追っ手たちは、次々に川に落ち、溺れました。

「助けてくれえー。わしは泳げないんじゃー」

「手だけではなく、姿を見せろ。何者だ」

すると、川の中から大きな河童が浮き上がってきました。

「ハッ、ハッ、ハ。俺は、筑後川に住んどる河童の頭領三千坊だ。葦ん陰に隠れち道真様を待ち伏せするなんち、卑怯なこつ。道真様ん代わりに、俺が相手になっちゃるけん、相撲ばとろう」

「相撲とは、笑わせる。河童と相撲なんぞとらぬわ」

「よう言うたな。河童は相撲が好きで、強かとぞ。知らんとか。道真様のご先祖は、相撲ん元祖ん野見宿祢(のみのすくね)命(のみこと)様なんぞ。そいで、道真様も相撲ば好いとらっしゃるとぞ。

道真様が見てくれちょるからにゃ、俺様が勝つに決まっとる」

 その時、追っ手の一人がさっと近づき、三千坊の右手を切り落としてしまいました。頭領の苦境を見た他の河童たちは、一丸となって追っ手を襲い、ついに打ち負かしてしまいました。

 「三千坊よ、我のために右手を失い、申し訳ないことじゃ。そなたの手は、今後この地で大切に葬ろうぞ」

 道真は、三千坊に感謝しつつ、北野を去り、大宰府に着きました。しかし、その二年後の903年、汚名をそそぐことなく、大宰府の地で亡くなりました。

その後、都では雷災などの天変地異が続き、道真左遷に関係した者が次々に雷に打たれたり急死したりしました。朝廷は、これは道真の怨霊によるものだと恐れました。そこで、道真の霊を鎮めるため、道真を天から雷を降らせる天神様として北野に祀り、北野天満宮が創建されました。この後北野天満宮は、道真亡き後墓所に建てられた太宰府天満宮と共に、天満宮の総本社となりました。やがて、災いも収まって平穏な世となり、学問にすぐれていた道真は学問の神様として崇められるようになりました。

道真を敬う天神信仰は全国に広まって、1054年(天喜2年)、筑後の北野にも京都の北野天満宮の分社として神社が建てられたのでした。人々は、道真が悼み葬っていた三千坊の手を、社宝として神社に安置しました。

 「三千坊んお陰で天神様は助かった。そん手はずっとここにまつるんが一番や」

 「ほんなこつ、三千坊は感心な河童やけん」

 北野天満宮では、神輿が練り歩く盛大な秋の神幸祭には、道真を慰め、河童に感謝して河童風流が奉納されています。そして、現在も25年に一度、道真を助けた三千坊の右手の一般公開が行われています。また、三千坊が腕を切り落とされて道真を助けたことから、道真はひきつけ封じ(手足の突然の硬直、けいれんを治すための祈願)の神様としてもお参りされているそうです。

 河童といえば、相撲が大好きで、人や馬を水に引っ張り込むいたずらな河童が多いようですが、北野の河童のように、天神様と一緒に人々に愛されている河童もいるのですね。

       2017年8、9月

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 久留米伝説めぐり  No.11

           筑後川にたどり着いた河童 

  

 数年前、念願叶って遠野(岩手県遠野市)を訪れたことがあります。遠野では、ざしきわらしや雪女、天狗、河童など、妖怪の気配を今も感じることができるかもしれないと思ったからです。名所になっている河童淵にも行ってみました。鬱蒼とした木々に囲まれて暗く神秘的なところを予想していたところ、周囲の木々もまばらで、水は澄んではいましたが、浅い小さな淵でした。これでは河童は住めそうにありません。やはり河童は広くて大きな筑後川の方が住みやすいに違いないと思いました。

筑後川には、昔から個性溢れる河童がいて、様々の河童伝説が語り継がれてきています。なぜ筑後川には、これほど多くの河童がいるのでしょう。河童のルーツについては、諸説あるようですが、その中でもスケールの大きな説について、『九州河童紀行』(九州河童の会編)などを参考に、想像をまじえてお話ししましょう。                                                                                      

   今から千五六百年前ぐらい昔のことです。おびただしい数の河童が、ぞくぞくと九州八代は球磨川の岸、徳渕の津に上陸してきました。その数、九千匹にもおよび、九千坊と呼ばれる大将に率いられていました。彼らは、元々ペルシャに住んでいたそうですが、ヒマラヤを越え、タクラマカン砂漠を横切り、東に向かって、蒙古から中国、朝鮮と大移動して、海を渡ってきたのでした。ちなみに、その頃、呉(クレ)と呼ばれていたという中国から、日本に多くの渡来人が来て、久留米にも機織りの技術を伝え、久留米という地名の起こりになったとも言われています。

 九千坊たちは、日本にたどり着くまで、長い年月かかりました。元々は人間の姿をしていたらしいのですが、長い移動の間に、どんな気候にでもあうように、体も変化していきました。日照りに耐えられるように、頭のてっぺんには、水を入れるためのくぼみができたり、お皿がついたりしました。背中には、亀のような甲羅があって、風雨のときは、その中に丸まって入ることができました。手足は長い旅の間にだんだんと細く長くなり、指には水掻きができ、遠い距離を平気で泳ぐことができるようになりました。手足の関節は前後に曲がり、両手は体の中でつながり、つかまえてもするりと抜けました。旅の間いろんな敵と戦い、力はどんどん強くなっていき、人間ばかりでなく馬や牛までも水に引きずり込んでやっつけることができるようになりました。

 八代に上陸した九千坊たちは、球磨川の清い流れ、豊かな平野の実りがすっかり気に入りました。もう熱い砂漠の中で飢えることもなく、黄河の氾濫や海峡の嵐に巻き込まれることもなくなりました。魚も作物も思いきり食べることができました。長い年月と旅の後、九千坊一族は八代の地に定住することとなりました。

 あるとき、河童のうちの一部のものたちが、球磨川から近いところに、球磨川よりもっと大きい筑後川があることを知りました。

 「そん大きな川は、球磨川よりもっと魚がようけ獲るるげな。平野もたいそう広かげな。行ってみるか」

 彼らは、筑後川田主丸辺りに住みつきました。気候もよく、川、海、野山から色んな食べ物がよく獲れるのでしたが、洪水に悩まされました。それで、荒れる川を鎮めようと、九千坊たちと同じように、中国で信じていた水神さまをお祭りしました。

 「水神さま、どうか川ば鎮めてください。いたずらしたり、乱暴したりせんで、神さまに仕えますけん、どうぞ自然の恵みば授けてください」

 こうして、久留米にも九千坊一族の一部の河童たちは住んで、水神さまに祈りながら暮らしておりました。

 ところで、球磨川に九千坊たちが住んで、千年ばかりが過ぎました。大将の九千坊は代替わりしつつも、九千坊一族の名はすっかり定着していきました。九千坊たちは、長年住んでいる間に、水神さまを信じる心も薄れ、だんだんわがもの顔に振舞うようになっていました。大好物のきゅうりやなす、瓜などをあちこちの畑から取り、力自慢をいいことに馬や牛、人までも川に引きずり込み、人々を困らせていました。そして、とうとう熊本の殿様、加藤清正のお気に入りの小姓を川に引っ張り込み、溺れ死にさせてしまいました。清正は武勇に優れたりっぱな殿様として有名でしたが、激しい気性で、たいそう怒りました。

 「球磨川の河童たちの乱暴、狼藉には、もう我慢がならん。彼奴らを一匹残らず退治せよ。川上から毒を流し入れ、焼け石を川に投げ入れよ。河童は猿が大の苦手と聞く。九州中の猿を動員して、戦をしかけよ」

 大将九千坊と河童たちは、集まって相談しました。

 「清正公の怒りば買うたからには、俺らには勝ち目はなかばい。これからは、悪いこつば止めて、こん球磨川からどっか他所に移った方がよかばい」

 九千坊たちは、清正の治める熊本から逃れることにしました。河童一族は、人間たちに捕まらないように、こっそりと球磨川から山を越え、野を越え、筑後川のほとりにやってきました。ここには、九千坊の仲間たちが住みついていたからです。九千坊は、久留米の河童に言いました。

 「こぎゃん大勢で申し訳なかばってん、九千坊一族全員、筑後川に住めんやか。筑後川球磨川よりたいぎゃ大けな川で、平野も広か。俺らの食べるもんぐらいは十分あるやろ。俺らも、水神さまは大事にしとるけん」

 久留米の河童は、日本に渡って来て以来信仰していた水神さまに仕え続けていました。そして、筑後川が荒れないように、野や畑にたくさんの実りがあるように祈っていました。ただ、ときどき子どもや牛馬にいたずらすることもありましたが、平生は水神さまのお使いとして、人々から大切にされていました。その頃久留米は、有馬の殿様になっていました。河童の一人の口利きで、九千坊は殿様に願い出ました。

 「私は、球磨川に千年あまりも住んでおった九千坊という河童一族の頭目でござります。訳あってはるばるこん筑後川にやって来ました。筑後川は水清く、平野には食べ物も豊富でござります。お殿様は、たいそう情け深いお方で、私らが仕える水神さまをあつく信じておられると聞きました。私らも水神さまにお仕えしております。決して田畑を荒らしたり、いたずらしたりしませんので、こん筑後川に住まわせてください」

有馬の殿様は、九千坊が懸命に懇願する姿に心を動かされました。

「河童ながら、水神さまを信じておるとは、感心じゃ。筑後川はよく氾濫が起こり、民たちは、いつも水禍、水難にたいそう困っておるのじゃ。九千匹もの河童たちが、水神に仕え、祈ってくれれば、筑後川も鎮められるであろう。これからは、安心して筑後川に住むがよかろう。しっかり筑後川を守るのじゃぞ」

こうして、筑後川にはたくさんの河童が住むようになったのです。有馬の殿様は、水神さまを祭る水天宮を大事にしていました。殿様のおかげで筑後川に住めるようになった河童も、きっと水天宮に水難除けのお参りをする人たちを守ってくれていることでしょう。  

        2017年10,11、12月

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久留米伝説めぐり  No.12 

                        巨瀬入道河童伝説

                                             

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                  九十瀬入道鎮魂蛇渕跡

 

 河童の里として有名な田主丸に、昨年夏真っ盛りの昼間、出かけました。あちこちに点在するたくさんの河童の碑や像、絵などを見て回り、汗を拭うのがたいへんでした。ただ、浮羽工業高校前を流れる巨瀬川沿いを歩いた時だけは、暑さも忘れ、なめらかで澄み切った川の表に見入ってしまいました。

 馬場橋と新馬場橋の間の川沿いに、一本の石碑が建っています。「九十瀬入道鎮魂蛇渕跡」という銘が刻まれていました。「ここが、巨瀬入道の住処なのか」と、しばらく見つめていましたが、鏡のような水面はあまりにも静かで、何の変化もありませんでした。

 巨瀬入道とは、いったい誰なのでしょう。今回は、巨瀬川に伝わる巨瀬入道の伝説を想像をまじえながら紹介しましょう。

 

 巨瀬川は、耳納山地鷹取山を水源として、うきは市久留米市の平野を流れて、筑後川に注ぐ川です。「こせ」の字は、高西、九十瀬、巨勢という風に変わっていったそうで、現在は巨瀬と書かれています。

平安時代後期、日本中の侍、豪族が源氏と平氏に分かれて戦っておりました。東国は主として源氏方、西国は主として平氏方でした。この耳納の山地にも、平氏ゆかりの者がいたそうです。

 平氏一族の頂点にいたのは、もちろん平清盛(1118-81)です。清盛は、沈みかけた日を再び昇らせたと言われるほどの権勢を誇りましたが、1181年(治承5年)熱病で苦しみながらあっけなく亡くなってしまいました。頭を失った平氏は、1185年(元暦2年)壇ノ浦の戦で惨敗し、多くの者が海の藻屑と消えてしまいました。清盛の孫安徳天皇(1178-85)も、清盛の妻時子で天皇の祖母になる二位尼(1126-85)に抱かれて海に飛び込みました。ところが、実は、二人は助かってひそかに遁れたという言い伝えが残っています。その一つに、筑後川から巨瀬川をさかのぼって、耳納の山中に落ちてきたという話があります。ただ、平氏再興はならず、二人ともこの地でひっそりと亡くなったとか。

 「あんお方たちは、平氏の高貴なお方たちじゃそうな。こげなん山奥で、むぞかなあ」

 村人たちは、丁重に弔いました。

 ところで、清盛の娘で安徳天皇の母である徳子、建礼門院(1155-1213)に仕えていた按察局(あぜちのつぼね)伊勢という官女がおりました。壇ノ浦の戦の後、筑後川のほとりの鷺野原まで遁れて来て、安徳天皇二位の尼を祀る祠を建てました。これが、やがて水天宮となっていくのですが、ともかく二人は按察使局に大切に祀られておりました。

平氏の者の霊は、壇ノ浦で滅んだあと、あの世の閻魔大王によって、男は蟹に、女は河童になるように決められました。瀬戸内海に平家蟹がたくさんいるのは、そのためだそうです。二位尼の霊は、筑後川で河童となり、筑後川にいる他のたくさんの河童たちを統率しておりました。

さて、壇ノ浦の戦より四年も前に亡くなった清盛の霊は、閻魔大王も扱いに困っていました。官位官職を平氏一門で占めて栄耀栄華を極め、奈良の興福寺東大寺などを焼き討ちしたりして、清盛の罪は大きいのですが、天皇の祖父ではありますし、蟹ではあまりにも哀れなので、大王は、河童にして巨瀬川に住まわせることにしました。巨瀬川上流、耳納の山地は平氏ゆかりの地で、縁があったからでしょう。

清盛は、巨瀬川の蛇渕あたりに住んで、巨瀬川の河童たちの大将となって巨勢入道と呼ばれていました。ある時、家来の河童たちが噂をしているのを聞きました。

筑後川ん河童を治めてござるんは、人間じゃった時は平清盛さまん奥方、二位尼さんじゃったそうな。」

 「平氏は滅びてしもうたばってん、今は、安徳天皇さんも二位尼さんも大切に祀られとって、ほんによかったね」

 それを聞いた清盛は、二人の祠に出かけていきました。久しぶりに二人に会って、楽しい時を過ごした清盛は、このままずっと二人と一緒におりたいと思いました。帰りがけ清盛は、妻に言いました。

「お前は孫と一緒に、広い筑後川のほとりで、りっぱに祀られて、幸せじゃのう。わしは、いつも小さな巨瀬川の蛇渕におらねばならず、窮屈でたまらん。ここで一緒に祀ってもらえんかのう」

 二位尼は、安徳天皇に頼んでみました。ところが、安徳天皇は、けんもほろろに言いました。

 「いくらおじいさまのお願いでも、それはできません。おじいさまは、生前権勢を誇って、ずい分な勝手をなさり、国を乱しました。私は、天皇としてそれを許すわけにはまいりません」

 二位尼は、がっくりと気落ちした夫の姿を見て、可哀そうに思いました。

「それでは、私たち二人が時々会うことだけでも、お許し下さい」

 さすがに、天皇も夫婦の逢瀬ぐらいは許可してやることにしました。それから巨瀬入道は、夏、川に水が増すと、たくさんの家来の河童に担がれた神輿に乗って、二位尼に会いに筑後川を下っていきました。大勢の河童たちの群れは、かつて京の都大路を練り歩いていたという禿(かむろ。都を群れて歩き回り、平氏の悪口を言う者をひったてていた十四、五、六の童たちのことで、おかっぱ頭に赤い直垂姿であったという)のようでありました。

「あの頃は、何でも思いのままであったが、今は、年に何度か水の中で妻に会うのさえやっとのことだ。あまりに驕り高ぶったせいであろう。ああ、人の世ははかないものだ」

 二位尼も、大勢の河童の担ぐ神輿で、川を上りました。二つの神輿は出会うと、喜びで何度も川の中をぐるぐると回りました。この時、筑後川は大荒れに荒れ、洪水が起こるのでした。

 筑後川は暴れ川という異名のとおり、かつてよく氾濫していました。それには、こういう言い伝えがあったのです。今は、治水工事の整備で洪水も少なくなりましたが、巨瀬入道がもっと二位尼に会いたがると、どうなるか分かりませんね。

                     2018年1、2月

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久留米伝説めぐり  No.13
                                           牛鬼の耳

                                     

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                            石垣山観音寺

 

今から千年近く昔、康平(1058-65)の世は、前九年の役源頼義、義家らが安倍頼時、貞任らを討った戦役。1051-62)など戦ばかり続いていて、田畑は荒らされ、人々は食べるものも十分ではありませんでした。その頃、足代山(あじろさん。耳納山の昔の名)に住む怪物が夜な夜な里に下りてきては、里人たちを困らせていました。それは、頭は牛、胴体は鬼という恐ろしい姿をしていて、体全体は大きく膨れあがっていました。地獄の底から聞こえてくるようなうなり声をあげて、毒を吐きながら、その大きな角で突いて家畜を襲い、むさぼり食べるのでした。人々は、牛鬼と呼んで怖がり、夜は外に出ることができませんでした。
 「牛鬼も、初手はあげなん怪物じゃなかったちゅう話ばい。戦つづきで食ぶるもんがなかけん、山に入って暮らすうちに、何でん襲って餓鬼んごつ食ぶるごつなって、とうとうあげんか地獄の牛頭(ごず。牛頭人身の地獄の鬼)んごたる姿になったんじゃろ」
 「ばってんいつまで俺たちば苦しむっじゃろか。誰か助けちくれんやろか」
こうして、ずい分長い間人々は牛鬼に苦しめられていました。ところで、里に白鳳2年(673年)創建の観音寺というお寺があり、金光上人(1155-1217)が住職だったころのことです。上人は、筑後の人で、高良山で出家し、比叡山で修行を積み、観音寺に戻ると、荒れていた観音寺を立て直した高僧だと言われています。
上人のころ、日本中が天候不順で冷害水害のため、凶作で、飢饉や疫病で多くの人が死んでいました。筑後も日照り、大雨、冷夏といった異常気象で農作物はできず、土地を捨て食べ物を求めて山野をさまよう者もいました。飢えで草や木の根、虫や動物までむさぼり食う、その修羅のような姿は、足代の山に住む牛鬼さながらでした。
長年里の人々を苦しめていた足代山の牛鬼は、今や飢饉のため食べる家畜もいなくなり、女、子どもまで襲うようになっていました。人々は噂し合いました。
 「作兵衛ん家の孫が、牛鬼にさらわれたげな。えずかあ」
 「五助ん家じゃ、こん前もろたばっかりん嫁女ば連れちいかれたげな」
 一人が思いつきました。
 「観音寺の和尚さんにお願いばしたらどげんじゃろか。和尚さんな、よう修行せらっしゃったりっぱなお方じゃそうな」
 金光上人は、食べるものもなく飢えてむさぼる、人々の哀れな様に心を痛めていました。そして、近ごろ目にあまる牛鬼の狼藉がどうにかならないものかと思っていました。
 「何でもかでもむさぼり食う牛鬼は、ほんにあさましく恐ろしいものじゃ。だが、あの姿は、人間の欲の行きつくところでもあるのじゃ。こん飢饉で、多くの者がわれ先にと食べ物を求めて争い、さまよっている姿は、牛鬼と変わらぬ」
 上人は村人の願いを聞き入れ、境内の大木の下に壇を設え、一心不乱にお経を唱え始めました。すると、夜更け、ゴーッと嵐のような音とともに、牛鬼が闇の中から上人の方に近づいてきました。鋭い角を振りかざしながら上人めがけて突進してきます。生あたたかい息が吹いてきて、上人は思わず気が遠くなりそうでした。そこで、なおも懸命に声を張り上げ、お経を続けました。
 牛鬼がいよいよ近づき、その大きな口を開け、今にも飛びかかろうとしたとき、上人は用意していた法水を牛鬼の体にパッと振りまきました。すると、牛鬼はたちまちぐったりと力がなくなってしまいました。
 「俺の一番好かんもんば振りかけちから。そげんかもんにゃ負けんぞ。俺の毒ん方がすごかつぞ」
 牛鬼は、上人に飛びかかろうとしますが、力が出てきません。その場に座り込んで、大きく膨れた体がみるみる縮み始めました。そして、巨大な牛鬼は、たちまち牛の頭と手だけになってしまいました。
 朝になって、その牛鬼を見た村人たちは驚き喜びました。
 「こりゃどげしたこつか。ずーっとわしらば苦しめちきた牛鬼がこげんかもんになって」
 「和尚さんのおかげで、これからは安心じゃなあ」
 その頃、都の飢饉はもっとひどく、市中には飢えのため屍を鬼畜のようにむさぼり食う者すらいるほどでした。金光上人は、人間の欲の恐ろしさを戒めるため、牛鬼の頭を都に送ることにしました。ただ牛鬼の最期を哀れに思い、耳だけはそぎ落として、牛鬼が長い間住んでいた足代山に埋めてやりました。そして、手は寺宝として保存し、供養することにしました。今も牛鬼の手はお寺に秘蔵されています。
耳が納められた足代山は、その後耳納山とよばれるようになりました。耳納山のどのあたりに埋められたのでしょう。耳をすませば、牛鬼の咆える声が聞こえてくるかもしれませんね。

      2018年3,4月

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 久留米伝説めぐり No. 14

                                        安徳天皇、椿の恋

 久留米は花の町です。1月から4月頃にかけては、様々の種類の椿が次々に開花します。花だけではなく、油や椿の模様の小物、椿のお饅頭まであります。椿の苗木生産地

としても名高く、2010年には国際ツバキ会議が開催されたといいます。私自身、毎年春の花見のひとつとして椿見物は欠かしません。椿は、水天宮の神紋にもなっており、本殿の周りには、たくさんの椿の木が植えられています。水天宮と椿、どういう関係があるのでしょう。久留米の有名な伝説のひとつ、安徳天皇の恋の話を、想像を交えながらお話しましょう。

                                     

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                                             椿の御神紋(水天宮本殿)

 

 今から八百年以上も昔、寿永4年(1185年)、栄華を誇った平家が壇ノ浦の戦いで滅びてしまいました。数え年8歳(満6歳4か月)であった安徳天皇(1178-85)は、祖母二位尼(1125-85)に抱かれて入水しました。この時、二位尼に「これから波の下にある極楽浄土にお連れします」と言われ、天皇は小さな手を合わせて念仏を唱えたのでした。母の建礼門院(1155-1213)も入水しましたが、引き上げられました。

 すでに4年前平清盛(1118-81)は熱病で亡くなっていました。それからの平家の没落は速く、最後の壇ノ浦の戦いで平家軍を率い果敢に戦ったのは、清盛の四男平知盛(1152-85)でした。知盛は冷静に運命を受け入れ、平家一門の者たちが次々に海に身を投げる様を見届けたのち、自分も潔く海に飛び込みました、知盛は「見るべきことはすっかり見た。今はただ自害しよう」と言って、鎧を二領重ねてまとい、浮き上がらないようにしたのでした。

 それから数か月、安徳天皇二位尼平知盛一行らしき姿が田主丸竹野の里で見られました。

 「あん子は、まだ七、八歳ぐらいかの。えろう可愛らしか。壇ノ浦で平家ん一門が海に飛び込んだち聞いたばってん、あん子は安徳天皇さんのごたるの」

 「こまか子どもまでむごかこつ。こげんところまで落ちて来たつじゃろか。どげんかして、助けられんやろか」

この辺りを治めていた草野氏は源氏の味方になっていて、落ちのびてきた一行を待ち伏せしていました。知盛の重臣伊賀家長は主人の身代わりとなって戦いましたが、草野氏の軍勢に敗れ、共に討たれてしまいました。

 「知盛さんも、家長さんもよう戦わっしゃったばってん、むぞかこつ。亡くならっしゃったげな」

 村人たちは、二人の死を悼んで、耳納連山を見上げる野に墓を建てました。お墓は、今も人家の間にひっそりと平神社(田主丸町竹野)として祀られています。

 安徳天皇一行は、昼間を避け、夜の闇の中を逃げていきました。源氏の追っ手が至るところに潜んでいました。ところが、不思議なことに、追っ手が迫るとかならず逃げ道を示してくれる光が現れるのでした。そして、「こちらです。こちらへ」という声が聞こえてくるのでした。その声は、知盛の声そっくりでした。女官が天皇に言いました。

 「あっ、また知盛さまの声がいたします」

 「知盛、礼を申すぞ。そなたは霊になっても、我らを導いてくれるのだな」

 こうして、安徳天皇一行は、巨勢川から筑後川のほとりに着きました。天皇は、筑後の豪族藤原種継を頼りました。種継は平家の旧臣で、ひそかに筑後河畔、鷺野ヶ原の千寿院という寺院に御座所を造り、天皇にお仕えしました。

 安徳天皇は、長い逃避の旅ののち、ようやく安らぎの日々を過ごすことができました。ほどなく二位尼は亡くなり、母建礼門院の官女、按察局伊勢がお仕えし、天皇も凛々しい若者に成長していきました。逃避の必要のなくなった今ではもう知盛の声も聞こえなくなっていました。

 ところで、種継には、玉江という美しい娘がおりました。玉江は、天皇お付きの浄厚尼から天皇の世話をするよう勧められ、側でお世話することになりました。天皇は、玉江を目にするうちに、玉江のことが忘れられなくなりました。

 「清らかで、美しい女子であることよ。どうしたら近づきになれるであろう」

 夕暮れ時、天皇はひとり境内を歩きながら思い悩んでいました。ふと、清水の井桁に気がつきました。そこに椿の花が寄り添い咲いていました。花が清水に映っている様は、気高く何ともいえず優雅な風情でした。それを見て、天皇は仰せられました。

 「椿は八千代を寿ぎ、井桁は深き契を宿すとかや」(「水天宮椿マップ」より)

 その言葉を聞いた浄厚尼のはからいで、天皇の玉江への想いは遂げられたのでした。二人の間には子どもも生まれたそうです。

 ところが、源氏の追求は厳しく、鷺野ヶ原も安全ではありませんでした。いよいよ追っ手が近づいていたその時、久しぶりに光が現れ、知盛の声が聞こえてきました。

 「南へおいでください。南へ」

 安徳天皇一行は、荒木白口の館に逃れ、ようやく落ち着くことができました。現在の白鳥神社久留米市荒木町白口)はその跡だと言われています。

 それから、安徳天皇は玉江姫、そして子どもと幸せに暮らし、二十七歳で流行病のため崩御されました。玉江姫は、剃髪し、生涯安徳天皇の霊を弔ったとのことです。陰ながら若き悲運の天皇に同情していた村人たちも、そっと手を合わせ、悼みました。

 「あんお人は安徳天皇さんちゅうこつじゃが、こまか時から、えろう苦労しなさったばいのう」

「ばってん、美しか嫁さんばもろうて、お子さんも生まれち、幸せにならっしゃって、ほんによかったこつ」

やがて、安徳天皇に仕えていた按察使局伊勢は剃髪し、名を千代と改め、安徳天皇二位尼建礼門院たちを祀って祠を建てました。これが、水天宮となっていくのですが、椿の花が水天宮の神紋になったのは、安徳天皇と玉江姫の恋物語の由縁からだと言われています。

ところで、安徳天皇を守り続けた平知盛の想いは、今もまだその子孫に受け継がれています。平家一門の霊を祀っていた千代女は、訪ねて来た知盛の孫平右忠を養い、後継ぎにしましたが、その子孫が現在に至るまで水天宮の宮司を務めているということです。

筑後で、長い長い年月、語り伝えられてきた平知盛の武勇、安徳天皇と玉江姫の恋、そして按察使局伊勢(千代女)と知盛の孫との縁。私たちは、それらに心を寄せ続けることによって、互いにつながり合い、歴史を共有して安心感を得てきたといえるでしょう。それは、おそらくこれからもずっと続くことでしょう。

         2018年5、6月

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久留米伝説めぐり 15

            懐良親王、戦いの生涯

             

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             平礼石(千光寺参道入口)

 

 あじさいで有名な千光寺(久留米市山本町)の奥に、南北朝時代(1336~92)、南朝のため筑後一円で戦いの一生を過ごした懐良親王(?~1383)のお墓があります。小高いあじさいの丘を越えたところに、木々に囲まれてひっそりと立っています。周りには、忠臣たちのものと思われる幾つか墓石が並んでいます。久留米には、

山本を初め、宮の陣、高良山などあちこちに懐良親王の話が伝えられています。親王が手植えしたという宮の陣の将軍梅は、今も毎年咲いて人々の目を楽しませていますし、親王が忠臣と別れの水杯を交わしたという高良山奥の院の清水は、なお多くの参拝者たちの喉を潤しています。これほど筑後に深い縁をもつ懐良親王とは、どういう人なのでしょう。千光寺奥の御陵墓、将軍梅、高良山懐良親王との関わりを中心に、親王の戦いの生涯について、想像を交えながら簡単にお話ししましょう。

 

 日本歴史上、北朝南朝、二つの朝廷があり、二人の天皇がいて対立していた時代がありました。南北朝時代と呼ばれ、京都の北朝に対して、吉野の南朝後醍醐天皇(1288~1339)が治めていました。後醍醐天皇南朝の勢力を拡大するため、皇子たちを各地に派遣しました。皇子の一人懐良親王(?~1383)は、わずか八歳で九州制覇の命を受け、海路九州に向かいました。征西将軍宮として派遣された懐良親王は、南朝方の豪族、武将のもとに滞在し、伊予、薩摩、肥後、筑後と彷徨い、戦い続けました。

 南北朝の抗争のうちに、懐良親王はいつの間にか三十歳にもなっていました。

 「吉野に朝廷をつくられた父君はとうに亡くなってしまった。だが、我はいまだに戦いの日々を過ごしておる。何のための戦いであろうか。我らのために、土地は荒れ、民の苦しみはいつ終わるとも知れぬ。悲しいばかりだ」

 懐良親王は、荒れ果てたた田畑を黙々と耕す百姓に声をかけました。

 「せっかく実りつつあった稲が、先だっての戦いで不毛になってしまったな。申し訳ない。なおまた励むよう頼むぞ」

 人々は、親王の優しい言葉を嬉しく思いました。

 「親王さんな、子どもん頃から苦労ばせらしゃったけん、わしらの苦労がようわかるばい」

 そして、ついに正平(以下、南朝元号)14年(1359年)七月、大保原を戦場とする筑後川の戦いが始まりました。高良山一帯に陣を張っていた懐良親王は、菊池武光らとともに四万の軍勢を率いて、善道寺町辺りの筑後川で、北朝方の少弐頼尚(1293~1271))率いる六万の軍勢との間に戦いの火ぶたを切って落としました。懐良親王の軍は、川近くにも陣を張り、現在の宮の陣の地名の由来となりました。また、戦勝を祈願して植えた紅梅一株は、今も宮の陣神社境内に将軍梅として残ってます。この時、菊池武光(?~1373)が戦いの後血まみれの刀を洗い真っ赤に染めたのが、大刀洗川だという言い伝えは有名です。

 八月、激戦の末、南朝方千八百人、北朝方三千六百人という多くの戦死者を出して、南朝方が勝利をおさめました。真夏のことで、おびただしい死体は腐って異臭を放ちました。高良山のお坊さんたちが、それを集めて供養したのが、宮ノ陣五郎丸にある五万騎塚だそうです。

しかし、懐良親王は、落馬し三か所も深手を負ってしまいました。親王は辛うじて千光寺近くの谷山城に引き揚げ、手当を受けましたが、暑いさ中、甲斐なく、とうとう亡くなられてしまいました。せっかく勝利を収めた兵士たちに親王の死を公にするのは、士気を下げることになると、親王の亡骸は千光寺で密かに火葬され、塚が建てられました。現在も、懐良親王御陵墓として残っています。

ところが、不思議なことに、懐良親王は、正平16年(1361年)大宰府の征西府をとり戻し、それから十二年もの間九州の南朝は最盛期を迎えたのでした。もしかすると、懐良親王は重傷から回復し、生きて再び征西将軍宮として活動されたのかもしれません。文中元年(1372年)、大宰府征西府は、幕府によって派遣された九州探題今川了俊(生没年不詳)の攻撃を受け、南朝大宰府を失ってしまいました。親王は、またもや高良山、菊池、八女へと彷徨うことになりました。高良大社奥の院には、今も人々に飲まれている勝ち水と呼ばれる清水があります。親王が忠臣たちと湧き出る水で別れの水杯を交すと、敵の攻勢を逃れることができたと伝えられています。

戦いの日々、懐良親王は、土地を荒らし、民の平和な暮らしを乱しているという慚愧の念をいつも心に抱いていました。天授3年(1377年)親王は高良下宮社に参拝し、世の平穏安定を祈願して願文を奉じました。

「長きにわたる戦火によって民は苦しみ続けている。これは、すべて我の徳無きがためだ。ああ、我が過ちは悔いて余りあり、我が咎はどれほど謝っても足りない」

親王が人々と直接交わることはほとんどありませんでしたが、長い年月の間、親王の優しさ、深い思いは人々にいつしか伝わっていました。

「わしたちも田畑ば耕しては、荒らさるっばかりで、ほんなこつどげんもならん。ばってん、親王さんも、むぞかのう。はよう戦ん終らんかのう」

こうして、八歳から何と四十七年に及ぶ長い年月、処々方々を彷徨いながら戦いに明け暮れた懐良親王は、弘和3年(1383年)、とうとう病のため星野で亡くなられました。

親王のお墓とされるものは幾つかあります。千光寺のお墓は、お寺の上の山の方にあるので、人々は麓で平たい石に座ってお墓に向かいお参りしたということです。平礼石と言って、今でも参道の入り口にあります。やがては滅びるとわかっていながら、その運命を受け入れていく懐良親王の懸命で哀れな様は、人間の一生に通じるようで、今なお伝説が語り伝えられる理由なのかもしれません。

        2018年7,8月

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久留米伝説めぐり  No.16

 

                           小早川神社と八ツ墓

 八ツ墓というと、すぐに連想するのは横溝正史推理小説『八ツ墓村』ですが、久留米には実際に八ツ墓があります。お墓は元は西鉄久留米駅近くの日本生命ビル裏にあったのですが、現在は寺町の医王寺に移されています。ビルの裏には慰霊碑跡があり、説明板が建っています。ずい分前、八ツ墓という名に惹かれて、お寺もビル裏も訪ねたことがありますが、両方とも、名前のような不気味な雰囲気はなく、ほっとしたのでした。お墓には、戦国時代殺された高良山座主と家来たちが葬られているそうです。では、一体誰が殺したのでしょう。それは、篠山城址にある小早川神社と関係があります。小早川神社と八ツ墓、ふたつに関わる伝説を、想像を交えながらお話しましょう。

                                                       

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                                                  小早川神社(篠山城址内)

 

 今から四百年以上昔、戦国の世、筑後久留米の領主は毛利元就(1497-1571)の九男毛利秀包(1567-1601)でした。秀包は十七歳の時関白秀吉(1537-98)の人質となって大阪城に行き、秀吉の近習として可愛がられました。天正14(1586)年から翌年までの秀吉の九州征伐で大活躍し、筑後では豪族草野氏を攻め滅ぼし、秀吉から久留米の地を拝領しました。

 この時、三十五万もの大軍を率いて九州に乗り込んできた秀吉は、高良山の麓の𠮷見岳城に陣を構えました。高良山は、僧麟圭(?-?)が座主として君臨し、僧兵や武士千五百以人以上を従えていました。

 「高良山は、神功皇后にゆかりのある由緒ある神社と聞く。だが、今はこの日の本にわしより力のある者はおらぬ。高良山の座主の挨拶はまだか。さっさと来るように申せ」

 麟圭は、内心秀吉を馬鹿にしていました。

 「あの成り上がり者が。わしは、俗世の権力なんぞに負けんぞ。じゃが、面倒にならぬよう、ちょっと出かけるとするか」

 麟圭は、万が一を考え、鎧の上に僧衣を羽織って秀吉に会い、通り一遍の挨拶をしました。秀吉は、怒り心頭、直ちに高良宮の領地を取り上げ、秀包にやってしまいました。

 秀包は、久留米城(現在の久留米大学医学部付近?)を築き、住んでいました。そして、豊後のキリシタン大名大友宗麟(1530-87)の娘を妻にして、自らも受洗し、シメオンという洗礼名を授けられました。久留米にも神父が住み、信者がどんどん増えていました。

 村では、麦踏みをするとき、畦作りをするとき、ロザリオの祈りを唱える姿が見られるようになりました。また、農作業の合間には、神父の話に耳を傾けて、平安を得るようになりました。

 「関白様がおらんごつなって、静かになったばい。ばってん、領主様と座主様がえろう仲が悪か。また、戦がはじまるんじゃろか。領主様はわしらと同じようにデウス(神)様を信じとらっしゃるけん、戦はなかろうもん」

 秀包は、麟圭に手を焼きました。秀吉から信頼され、久留米領主となり、高良山まで与えられたのに、期待に沿えません。麟圭は、年貢も治めず、まったく言うことを聞こうとしませんでした。秀包は、何度も高良山を攻めましたが、地の利を知らないため、歯が立ちません。それで、麟圭の縁者を家臣にめとらせ、油断させるという策を講じました。

 天正19(1591)年5月13日、秀包は麟圭を城に招き、酒宴を開きました。麟圭は、息子の了巴(?-?)と六人の家来を連れ、やってきました。八人は手厚いもてなしを受け、満足して帰りかかった時、妙な気配を感じました。八人は、敵の目をくらまそうと、途中処々方々に馬を走らせました。しかし、秀包は、用意周到にどの帰り道にも家来を待ち伏せさせていました。麟圭たちは八人皆、馬にむち打ち、逃げ回りしましたが、無残に斬り殺されてしまいました。

 「あげん逃ぐるもんば、追い回しち、むごか殺し方ばい」

 「なんち、むぞなこつ」

 村人たちは、八人の遺体を集めてまとめ、もと高良山への古道筋に墓を建て供養しました。西鉄久留米駅近くの日本生命ビルの裏手になります。

 「秀包様はキリシタンでござらっしゃるのに、何であげなこつさっっしゃったかのう。デウス様は、人を殺すべからずち、戒めちおらるるがのう」

 「わしらは、デウス様ん教えば守らなばい。座主様たちが天国に行かるるごつ、祈ろう。そして、領主様ん罪ばわしらが償おう」

 八人を祀った墓のそばには玉椿が繁っていたため、玉椿の紋の献灯が下げられ、墓は玉椿社と呼ばれるようになったそうです(医王寺『八つ墓の由来』)。

 秀包は、秀吉が天正20(1592)年から慶長2(1598)年の間、二度にわたって行った朝鮮出兵で戦功をあげますが、慶長5(1600)年の関ケ原の戦いで西軍につき、敗北します。そして、久留米城も明け渡し、長門国(今の山口県の西部・北部)に改易され、翌慶長6年35歳で病没します。生まれは毛利氏ですが、兄小早川隆景の養子となったため、ずっと小早川姓を名乗っていました。ところが、関ケ原の戦いで隆景の養子小早川秀秋(1582-1602)の裏切りがあったことを快しとせず、元の毛利姓に戻ったのです。

 現篠山城址の広い庭の一隅に、秀包を祀った小早川神社があります。小さな古い石の祠です。神社名は、久留米時代の秀包の姓に従っているのでしょう。久留米城主であった頃、秀包は熱心なキリシタンで、教会堂を建て神父を招き、一時は領内に七千人の信徒がいたと言われています。そして、伴天連追放令天正15年秀吉が出した禁止令。キリシタンを禁じ、バテレンを国外追放にするという命令)が出た後も、まだ熱心に信仰を続けました(帚木蓬生『守教』)。

小早川神社の扉には、信心深かったというキリシタン秀包を表しているのでしょう。アンドレアス十字(キリスト教で用いられる十字架を模したシンボル)というX字型の十字が刻まれています。そして、その上に、神社の幣が飾られています。苔むした祠に揺れる幣の白さを見ると、謀略で麟圭たちを斬殺した秀包の残酷さもすべて浄化されたのだと思えてきます。村人たちが建てた八ツ墓は、現在、寺町の医王寺に移されています。立派な自然石の墓には、今も花が手向けられ、寺にはたくさんの椿が咲いています。八人の霊もまた、争いを遥かに超えて慰められているのでしょう。

         2018年9,10月

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久留米伝説めぐり  No. 17  

                                久留米のマリア観音

                          

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                                            慈母観音像  (成田山 久留米 分院)

 

 久留米市街から国道三号線で南へ向かうとほどなく、大空を背にひときわ高くそびえ立つ白い観音像があります。成田山分院の慈母観音像(高さ62メートル)です。建てられてまだ三十六年ばかりの新しいもので、当初はその高さに驚かされましたが、今では久留米の名所といった感じになっています。赤ん坊を抱いた優しい姿には、心が癒されます。初めて見た時、何となく聖母マリア様かと思いましたが、よく見ると観音様でした。しかし、見間違ったのも無理からぬことで、潜伏(隠れ)キリシタンの時代、信者たちが密かに祈りをささげていた慈母観音像があったのですから。それは、マリア観音と呼ばれています。実は、久留米にもマリア観音像が本町の無量寺というお寺にかつてあって、信仰されていたという伝説があります。どんな話でしょう。想像を交えながら、お話ししましょう。

 関ケ原の戦い(1601)前後、筑後キリスト教信仰が盛んでした。九州征伐(1586-87)の功により秀吉から久留米を拝領し、久留米城を築いて住んだ毛利(小早川)秀包(1567-1601)は、自身も熱心なキリシタンでした。秀包は、豊後のキリシタン大名大友宗麟(1530-80)の娘、桂姫を妻に迎えていました。『フロイス日本史』(1549年以降のキリスト教布教史)の著者として有名なルイス・フロイス神父(1532-97)が息子元鎮の洗礼のため久留米を訪ねたこともありました。久留米には、伝道所や天主堂、教会が建てられ、最盛期には信者が七千人もいたと言われています。しかし、関ケ原で豊臣方についたため、秀包は改易され、ほどなく病没します。

 秀包の後、慶長6年(1601年)筑後の領主となった田中吉政(1548-1609)は、キリシタンにきわめて寛容で、保護していました。キリシタンを苦しめる者は罰し、彼が住む柳川城下には教会が建ち、キリシタンによって西洋音楽や美術が伝わっていました。

 秀包、吉政の頃、キリスト教を取り巻く環境は厳しくなる一方でした。天正15年(1587年)、豊臣秀吉バテレン追放令を出して、禁教政策を推進していました。江戸幕府もその方針を引き継ぎ、慶長17年(1612年)幕府直轄領に、翌年全国に禁教令が出され、寛永14年(1637年)から翌年にかけて島原の乱がおこりました。貧しいキリシタンの百姓たちが厳しい弾圧と重税に対して天草四郎(1621-38)を頭に原城に立てこもって戦ったのです。乱は治まりましたが、この後、江戸時代の間中ずっと踏絵や宗門改めなどが徹底され、キリスト教信仰は、明治まで潜伏キリシタンの人々によって細々と存続しただけでした。

 バテレン追放令や禁教令のもとで、秀包や吉政のキリスト教に対する熱心さや好意は、勇気ある行動でした。田中家は、慶長14年(1609年)吉政が亡くなり、間もなく嫡男忠政が急死し、廃絶しました。

そして、元和6年(1621年)福知山の有馬豊氏(1569-1642)が久留米藩主となりました。島原の乱の時には、豊氏、忠頼(1603-55)父子も出陣し、七千人以上もが出兵し、千二百人からの犠牲者が出たということです。有馬氏は幕府の政策に従って、厳しい禁教を行いました。しかし、秀包、吉政の時代に植え付けられたキリスト教信仰の根は、たやすく断ち切られるものではありませんでした。

城中に住む侍に一人のキリシタンがおりました。侍は、三十センチくらいの小さな観音像を毎日オラショキリシタンの祈り)を唱えながら拝んでいました。

「わしが拝んでいる観音様は、慈悲の心で子どもを見守る観音菩薩様ということになっておるが、じつはマリア様じゃ。菩薩様と同じように、赤ん坊を抱いておられるが、顔かたちや髪形をよう見たらマリア様だとわかるだろう。見つかったら、火あぶりか磔だ」

侍はどうしたらいいか悩みました。

「町でも村でも、隠れているキリシタンを見つけようと厳しい取り調べがあっておる。イエズス様のお顔を踏まされたりして。密告した者には褒美の金も出るという。やはりマリア様を持っていては危ない。

そうだ。奥女中の桔梗殿は、昔からの知り合いだ。灯台元暗しというから、城の奥の方が、あんがい安心かもしれん。安産と乳授けの観音様じゃと、桔梗殿には言おう」

桔梗は、マリア様とは疑いもせず、侍の頼みを引き受けました。

「よかですよ。優しかお顔の観音様ですね。おなごが拝めば、余計ご利益があるっでしょ」

ところが、その後キリシタン探しはますます厳しくなっていきました。桔梗は、預かった観音様を日々眺めているうちに、だんだん不安になってきました。

「この観音様は、マリア観音やなかやろか。見つかったら、どげんしよか。

そうそう。知り合いの無量寺さんに預かってもらおう。あそこのお坊様は心の広かお方んごたる。安産と乳授けの観音様だと言うたら、気持ちよう引き受けてくださるやろう」

桔梗は、こっそり観音様を抱えて無量寺に持っていきました。無量寺の住職は、何も疑わず、気持ちよく引き受けてくれました。

「優しいお顔の観音様じゃ。お堂にお祭りしてあげよう」

やがて赤ん坊を抱いた観音様を拝もうと、たくさんの女の人たちが無量寺を訪れるようになりました。

「うちは、ずーと子どもに恵まれんやったばってん、あん観音さんにお参りしたら、えろう安産で生まれたつよ。ありがたかこつ」

「うちは、お乳が出らんでね。産まれてからずっとお腹をすかせて泣いてばかりやったんよ。ばってん、無量寺の観音様に毎日お参りしよったら、よう出るごつなったつよ。そいけん、今日は、お礼にこん乳首ばお堂に下げに来ましたったい」

赤ん坊を抱いたその女の人は、観音様に自分で作った、丸い乳首のついた布の乳房をお供えしました。こうして、お堂の観音様の前は、手作りの乳首でいっぱいになりました。

 その後、キリシタン禁制の長い江戸時代、そして明治になって禁制が解かれた後も、観音様は、長い間、多くの人々の信仰を集めたということです。ところが、残念なことに、昭和二十年(1945年)の久留米空襲で無量寺も爆撃を受け、、安産と乳授けの観音、実はマリア観音は焼失してしまったそうです。今は伝説としてのみ残る無量寺マリア観音。その言い伝えの背後には、久留米の潜伏キリシタンの歴史が垣間見えます。 

       2018年11,12月

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  久留米伝説めぐり No.18

                   虫追い祭りの大合戦

                                   

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                                 虫追い祭りの馬(益永選果場)

 

  田主丸に虫追い祭りという稲の害虫を追い払う祭りがあります。江戸時代から三百年以上も続くもので、現在は三年毎に開かれているそうです。六年前に一度見物に行ったことがあります。大勢の若者たちが鉦や太鼓の囃子に合わせ、武者姿の二つの藁人形を戦わせる勇壮な祭りです。高さ三メートルばかりの人形が相手を倒そうとしますが、傍にやはり藁で作った大きな黒い馬がいて戦いの邪魔をするので、なかなか勝負がつきません。馬だけは祭り後もとっておかれていると聞き、今年のお正月明け、馬のある(いる?)益永選果場(久留米市田主丸町)に行ってみました。親切な園芸流通センター(うきは市吉井町)の方がわざわざ連れていって下さいました。真っ黒な胴体の馬が座っていました。二人の武者と馬が主役の祭り、どういう謂れがあるのでしょう。想像を交えながらお話しましょう。

 

 今から八百年以上昔、平安時代末期のことです。栄華を誇った平家は、清盛没後勢力は衰えるばかりで、源氏に負け続けていました。寿永2年(1183年)俱利伽羅峠(富山県と石川県の県境)の戦いで源氏の木曽義仲(1154-84)に大敗し、加賀の国篠原(加賀市篠原町)に陣をしいて義仲軍に向かいました。次々に敗走する平家軍の中に、勇名を馳せてきた武将斎藤別当実盛(1111-83)がおりました。実盛は齢七十を越えた老齢の身でしたが、黒々とした髪で錦の直垂を着た若々しい姿で、ただ一騎踏みとどまって戦い続けていました。

 義仲の家来でまだ二十二、三歳の手塚太郎光盛(?-1184)は、自分が名乗っても実盛は名乗ろうとしないのを不思議に思いながら、懸命に向かっていきました。実は、実盛は光盛の母の仇で、光盛が成長した暁には討たれてやろうと思っていたのです。若い光盛に攻められ、実盛のまたがっていた馬が稲の切り株に躓いてしまいました。落馬して倒れた実盛は、光盛に首をとられてしまいました。

義仲は、昔幼い頃実盛に命を助けられ、それを忘れていませんでした。実盛の首を見せられた義仲は、黒い髪ではあるが実盛ではないかと思い、首を洗わせました。すると白髪頭の老人の実盛でした。義仲は、命の恩人を討ちとってしまったことを嘆き、光盛は主人の恩人の首をとったことを悔やみました。

 この実盛をめぐる義仲、光盛の話は、『平家物語』、『源平盛衰記』、文楽、歌舞伎などで流布されて、江戸時代には人口に膾炙していたようです。芭蕉(1644-94)も、元禄2年(1689年)『奥の細道』行脚の途中この地に寄って、「むざんやな 兜の下の きりぎりす」という句を詠んでいます。筑後でも、芝居や物語で、老いてなお戦う実盛の姿に触れ、人々は心を打たれていたことでしょう。

文楽や歌舞伎の話が流布して人々を楽しませていた一方、江戸時代は、ウンカやイナゴといった害虫によって稲の収穫が減り、困っていた時代でもありました。享保17年(1732年)の飢饉では、特に西日本で害虫が異常発生しました。ウンカは、稲の実(さね)につくため、文楽、歌舞伎で馴染みの斎藤実盛の名から実盛虫と呼ばれるようになっていました。

 どうにかして虫を追い払うことはできないものか。各地で、害虫退治と五穀豊穣を願って虫追いの行事が見られるようになりました。ウンカつまり実盛虫を追う儀式、祭りです。筑後でも虫追い祭りが行われるようになりました。

 「こげん虫ばっかりふえておおごつばい。どげん米が穫れんでちゃ年貢の取り立ては厳しかもんねえ」

「実盛虫ち言うとは、あん芝居の実盛さんが稲ん株につまづいたけんやろ。実盛さんな稲ば恨まっしゃって、虫になったとばい」

 「実盛さんな木曽義仲がこまか時命ば助けたり、光盛さんに仇ばうたせちやろうとしたりしたとたい。そげなん情け深か実盛さんが、稲の害虫になったっちゃ、むぞかなあ」

 「よかこつのある。実盛さんの人形ば作って、それに害虫の霊ば封じ込めて、光盛さんに追い払うちもろたら、どげんやろ」

 「実盛さんも光盛さんに追い払うてもろたら、本望じゃろう」

 田主丸の人々は、藁で実盛と光盛、さらに実盛の愛馬の人形を作りました。人形を掲げて神社に参拝した後、鉦や太鼓を鳴らしながら村を練り歩き、二つの人形を戦わせるのです。馬も実盛を助けようと、戦いの邪魔をします。最後は、実盛は負けて、かがり火の中に投げ込まれてしまいます。光盛は、刀折れ矢尽きた姿で、村の入り口に立って、再び害虫が入って来るのを防ぐのでした。

 全国あちこちに伝わる虫追い祭り、それぞれ違いはあるようですが、田主丸の虫追い祭りは、実盛と光盛の合戦が迫力あり、大いに見ごたえがあります。特に、夜には松明をともして巨勢川で戦うらしく、一度見てみたいものです。

 それにしても、加賀の国の実盛と光盛の戦いが遠い筑後の野でくり広げられていることには、ほんとうに驚かされます。江戸時代は、文化の伝播力が相当に大きかったというべきなのでしょう。、源平合戦を基にした歌舞伎や文楽などが一般に楽しまれ、それを題材にして、虫追い祭りのような民俗的行事が生まれたのですから。

 祭りの時、見物人たちはいつのまにか本来害をなし退治さるべき実盛も応援しているのは、不思議です。実盛は害虫にされて、どう思っているのでしょう。幼い義仲を助けたり、光盛に名乗らず仇をとられてやろうとしたりして、慈悲心に溢れた実盛ですから、害虫になって人々に追い払われてやることぐらい、それで稲がよく実るようになるのであれば、構わないのかもしれませんね。

        2019年、1,2月

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久留米伝説めぐり   No. 19

          不思議な夢、朝日の子

 

                     

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            神子栄尊禅師座像(朝日寺)        

 

 鬼夜で有名な玉垂宮近くの広川沿いに夜明山朝日寺(ちょうにちじ)(大善寺町夜明)という古刹があります。お寺の固有名詞にしては普通名詞っぽい名前ですが、『歴史散歩No.2』(久留米市文化財保護課発行)によれば、鎌倉時代13世紀半ばの創建で、古い伝説の伝わる由緒ある寺です。平家とも関わりがありそうだというので、梅のほころぶ二月のある日、訪ねてみました。

 寺を開いた神子栄尊禅師の座像を見せて頂こうと、思い切って呼び鈴を押すと、

ご住職が出てこられました。そして、新築間もない本堂に通され、伝説や臨済宗

話などいろいろと聞かせて下さいました。帰りには、丁寧に御下がりのお菓子まで

頂き、大いに感激しました。

 親切なおもてなしがうれしい朝日寺、ここにはいったいどんな話が言い伝えられて

いるのでしょう。想像を交えながら、紹介しましょう。

 

 平安時代の終わりごろ、平清盛(1118-81)の率いる平家が栄耀栄華を誇っていました。その驕り高ぶりが日に日にひどくなって、目に余るようになり、ついに平家一門の中からも平家転覆を図る者たちが出てきました。治承1年(1177年)都の西、鹿ケ谷の山荘でその陰謀がめぐらされましたが、発覚して、俊寛僧都(?~1179)、藤原成経(?~1202)、平康頼(?~1220)ははるか薩摩の沖に浮かぶ絶海の火山島鬼界ヶ島(現在の鹿児島県薩南諸島の一つ)に流されました。

 平康頼は平家の武士で、流罪の途中出家するほど信心深く、鬼界ヶ島でも岩山に熊野権現を祭り、千本の卒塔婆に歌を書きつけ、都に届くよう祈りを捧げました。そして奇跡的なことに、その内の一本が、厳島に流れ着き、ついに清盛の手に渡りました。清盛は、高倉天皇の后となった娘徳子の安産のため大赦を行い、成経と康頼は許され、都へ帰ることになりました。

 康頼は、鬼界ヶ島流罪中衣食を送り助けてくれていた平教盛(清盛の弟、1128~85)の領地肥前国鹿瀬荘(佐賀市嘉瀬町周辺)に寄り、しばらく滞在し休養をとりました。筑後川沿いには、平家が推進していた日宋貿易の拠点があり、三潴にはそれで富を蓄え、三池長者と呼ばれていた藤吉種継がいました。

 康頼は、ある時一人さまよい歩くうちに、三潴の霰川(現在の広川)までやってきました。ほとりに、小さなお堂があります。

「こんなところに、お堂とは。ちょっとお経を唱えていこう」

 お堂の中には、観音様が祭られていました。念仏を唱え、お堂を出た途端、びっくりしました。入り口に、観音様が立っていたからです。しかし、よく見ると人間の娘で、そのあまりの美しさに康頼は見間違ったのでした。康頼はたちまち魅了されてしまいました。

 「わしは、平康頼と申す者だが、驚かせてしまったようだな。この近くに住んでおられるのか」

 「はい。私は藤吉種継の娘千代と申します。朝昼、この観音様にお参りしております」

 「種継の姫でござったか。種継の名は、よく知っておる。ちょっと寄って参ろう」

 千代姫は信仰一筋で、どんな縁談にも見向こうとせず、観音参りに明け暮れていました。 お参りの途中、田畑を耕す村人たちをねぎらい、小昼を差し入れたりしていました。

 「ほんなこつやさしか姫さんじゃ。観音さんのごたる。長者どんがどこにも嫁に出したがらんのも無理なかばい」

 「こん前は、京の御所から差し出せと迎えに来た者を、長者どんな人間ば焼くときの臭いのするツナシ(ニシン科の魚)を焼いて、娘の火葬だと言って騙したそうな。そいからわしたちは、ツナシば子の代わり、コノシロと呼んでおるんじゃ」

 「わしらも、姫さんにはいつまでも三潴におってほしかあ」

 お堂から聞こえていた康頼のお経の声の美しさにうっとりとしていた千代姫は、お堂から出てきた康頼を一目見た途端、その気品あるたたずまいに惹きつけられ、いそいそと父のもとに連れていきました。

 種継は驚きましたが、丁寧にもてなし、泊めました。 しかし、実のところ、種継はいくら赦免されたとはいえ、清盛の手前、罪人であった康頼を歓迎はしておりませんでした。その夜、千代姫は朝日を飲み込むという不思議な夢を見ました。翌朝、康頼は去りがたい思いを抱きながら帰っていきました。

それからしばらく経って、千代姫は男の子を生みました。種継は、赤ん坊が口から光を出しているのを見て驚き、平家の罪人であった康頼の子にちがいないと思いました。そして、咎められることを恐れ、近くの草むらに捨ててしまいました。村人たちは、口から光を出す子どもに恐れをなして、可哀想に思いつつ遠巻きに囲んでいるばかりでした。

「こげなんところに捨てられて、むぞかのう」

「口から光ば出しとる子どもちゃ、初めて見たばい」

そこに山本の永勝寺の元琳和尚が通りかかりました。和尚は、赤ん坊を寺に連れて帰りました。千代姫は子どものことが心配で、家を出ると、和尚に願い、一生永勝寺で過ごしたということです(西原そめ子『筑後の寺めぐり』)。和尚に口光と名付けられた赤ん坊は利発で、修行を積み、宋にまで留学し、後に神子栄尊禅師という禅宗の立派な僧となりました。そして、各地に禅寺を開き、生まれた三潴の地には、母が懐妊の時見た夢に因んで名づけられた朝日寺を建てました。

平康頼は、子どもが生まれたとは知らないまま都に帰り、折に触れ千代姫のことを懐かしく思い出したのでした。信心深い康頼は、仏教説話集『宝物集』を書き、鬼界ヶ島に一人残され亡くなった俊寛を供養し続けたということです。

素朴なたたずまいの久留米のお寺に、『平家物語』の中でも有名な鬼界ヶ島の話に関わる伝説が伝わっているとは、驚かされ、感動させられます。

         2019年、4,5月

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   久留米伝説めぐり No. 20

                        月の神様、眼の神様

         

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           月読神社(久留米市田主丸東町)

 

 七、八年前、田主丸の月読神社(田主丸町田主丸東町)を訪ねたことがあります。近所の方から、眼の神様として有名で、毎年一月の二十三日から二十五日まで三夜様という大祭が催され、眼病平癒を願って大勢の人が参拝に訪れると聞き、興味深く思ったからです。天照大神の弟で月の神様である月読命が、眼病を治すとはどういうことでしょう。鳥居の左右の石灯篭の上にも、そして狛犬の左右の石灯籠の上にも、月の神の使いである兎の像があったのが、印象的でした。最近、再び訪ね、境内の横に住んでおられる宮司さんから、車で数分ほどの二田というところにも月読神社があり、そこが元であるとお聞きしました。行ってみると、二田地区の公民館と同じ敷地内にある小さな神社でした。どうして田主丸に二つも月読神社があり、眼の神様として信仰されるようになったのでしょう。それについては、由緒や伝承がいくつか残っています(『田主丸郷土史研究 第二号』)。想像を交えながらお話ししましょう。

 

 戦国時代、御原郡(主として現在の小郡市)に高橋城というお城があり、高橋長種というお殿様が住んでおりました。長種は、城の守護神として月読命を城内に祭っていました。

 ある時、長種は重い眼病に罹り、日に日に視力が衰えてほとんど物が見えないほどになってしまいました。眼に効くという薬をあれこれ試しましたが、いっこうに良くなりません。あちこちのお寺や神社にも詣でましたが、効き目がありません。

「そうだ。城に祭っている月読命にまだお願いしていなかった。月読命は月の神様だ。月が夜を照らすように、もしかしたら眼の見えぬ私の暗い世界を照らして下さるかもしれぬ」

 父の伊邪那岐命イザナギノミコト)が黄泉の国から帰って禊祓(神に祈って穢れ、災いを取り除くこと)をした時、左の眼を洗って生まれたのが日の神様天照大神で、右の眼を洗って生まれたのが月の神様月読命だったのです。

長種は、日夜月読命に祈りました。特に、月の出を待って願うと適うという二十三日の夜は、一心に祈願しました。

ある日、いつも通りお参りして、闇の中を手探りしながらお城に帰っていると、何かぼんやりと明るい光が見えます。

「あっ、光が見える。嬉しや」

思わず近づき触れると、それは、冷たく光る鏡でした。長種は、両手で持ち上げ、じっと見つめていました。ほどなく長種は、澄んだ鏡に映る自分の顔が見え始めました。

「ああ、見えた。見えた。ついに目が見えた。月の神様のおかげだ。月読命に感謝せねば」

 長種は、鏡をお城の月読神社に神霊として大切に奉納しました。やがて年が経ち、長種は病を得て、臨終間近になりました。いつも信仰していた月読神社のことが気がかりだった長種は、弟の次郎三郎に言いました。

 「今は戦国の乱世だ。この城もいつ攻められるか分からぬ。月読神社も危険に陥ろう。わしには子がないので、お前に頼む。

遁世して、神社の御神霊(神鏡)を大切にいただいて、国のあちこちを回り、御神霊にふさわしい地を探してほしい。よい地を見つけたなら、そこに社を建て、御神霊をお納めし、末永く仕えてくれ。そうすれば、わしもあの世で、安らかに眠ることができよう」

 次郎三郎は、遺言に従い、神霊を背負って国を巡りました。そして、竹野郡二田村(田主丸益生田二田)に着いた時、急に神霊が重く感じられました。そのため、足が前に進みません。

「ここだ。こここそ月読命の地だ」

 次郎三郎は、そこに小さな社を建て、神霊を安置しました。それは、天文三年(1534年)のことで、月の出を待って願い事をすれば適うという一月二十三日でした。

それから次郎三郎の子孫は、百年二百年と祖先の言い伝えを守り、月読命を深く信仰し続けました。やがて二田の小さな社の神様に、眼を治してもらおうと近くから遠くから人々がお参りに来るするようになりました。

「あん月の神様ば拝むごつなって、また縫物もできるごつなったつよ」

鷹取山(耳納連山の主峰)もかすむごつなっとったばってん、よう見ゆるごつなったたい。ほんなこつ嬉しか」

「わしは、病で全然見えんごつなっとった。昼も夜も同じ闇ん中におった。ところが、ある時、夢に月読の神様ん現れてっさい、二田までお祈りに行けっちゅうお告げがあったけん、ここまで連れてきてもろうた。お参りば続けよったら、二十日も経たんとに両目とも見ゆるごつなった。もう嬉しゅうて嬉しゅうて。遠かばってん、こうしてお礼参りに来よったい」

 寛延二年(1749年)には、柳川立花藩のお殿様が、眼を患った姫君のため柳川から代わりの使者をたて祈願させたということです。たくさんのお供え物を載せた車を仕立て参拝し続けたところ、姫の眼はすっかりよくなったのでした。

こうして月読神社の評判は高くなる一方で、隆盛を極めていきました。ついに田主丸の有志の人々の要請で、明治十三年(1880年)二田からやや離れたところにある馬場瀬神社(田主丸町田主丸東町)の境内横にも社殿が建てられました。これが東町の月読神社なのです。神社の宮司さんは次郎三郎の子孫だということです。

東町の月読神社には、今も眼病平癒の御利益を信じる人々が参拝に訪れ、毎年一月二十三日の大祭には、境内に植木市が立つほどの賑わいを見せ、地元の人々からは三夜様と呼ばれ親しまれています。何百年もの間、筑後の一隅で月の神様が眼の神様として人々の信仰を集めてきたとは、素朴に驚かされされますね。

         2019年6、7月

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         南吉朗読会協力

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   久留米伝説めぐり No.21

          まんだら織女とまんだらさん石

 

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         まんだらさん石(右端)を祀ったお堂

 

 高良内町というのは、高良山(標高312m)と明星山(標高362m)に抱かれた高良川に沿う静かな山間の町です。先日西鉄バス竹の子行きに乗って、初めて行ってみました。まんだらさん石の伝説を訪ねてです。その後、夜に高良川の上流にある蛍の名所親水公園も訪ね、ふわふわと飛ぶ蛍を楽しみました。まんだらさん石というのは高さ30センチくらいの丸い石で、竹の子バス停からほど近い井堀集落の民家の一角にある小さなお堂に祀られています。お堂には鍵がかかっていましたが、ガラス超しに一緒に並んだ機織りの筬を持った織姫像、それに観音様も見え、拝することができました。お堂の近くの個人宅の庭には糸織塚と呼ばれる大小の石もあるらしいのですが、伺えませんでした。このまんだらさん石や糸織塚について、昔から語られ、今も地元で大切に伝えられている伝説(紙芝居『まんだらさん石』おはなしポケット再話)があります。どんなお話しでしょう。高良内の自然を目に浮かべながら想像を交えてお話ししましょう。

          

 古代、高良山には高良の神様、高良大明神が住み、人々に敬われていました。そこに、仏教が伝わって、高良の神様は仏教に帰依しました。それからずっと時代によって変遷はありましたが、高良山神仏習合(日本固有の神の信仰と仏教信仰とが折衷融合していること)の山として栄えました。

 神仏習合の時代になってから、高良山にはお寺や僧坊がたくさん建ち、多くのお坊様たちが暮らすようになりました。それで、お坊様たちの衣や仏壇の飾り布が必要となり、そしてまんだら(曼荼羅。諸仏や菩薩などを網羅して、悟りの世界を象徴するものとして描いた図)も織られることとなりました。

しかし、まんだらを織る高い技術をもった織子は、高良山の近辺にはおらず、遠いところから来ていました。ある時は、優れた技術を持つ朝鮮や大和の方からも来たということです。織子たちはみな若い女の子で、一生高良山の織子として暮らすよう連れて来られていたのでした。高良山と明星山の間に粗末な小屋が建てられ、そこで毎日まんだらを織って過ごしていました。あたりは家もまばらで、めったに人も通りません。

 キートン パタリ 

 キートン パタリ

機織り機の音が谷間に響くばかりでした。寺からときどき食べ物が運んで来られていました。しかし、一日中働くと、若い織子たちはすぐにお腹が空きます。そっと山に出かけて木の実を採って食べたり、谷川の水をすくって飲んだりしました。毎日機を織る手は赤くはれ、ひびわれて水もしみました。

ある時、村人が機織りの音に引かれて、そっと様子を見に来ました。

「みんな痩せてしもうて、青白か顔ばして、食べるもんの少なかやろ。それにあげん薄着で、山ん中じゃ寒かろ」

それから時々、村人たちは食べ物や着物を持って行ってやるようになりました。土地の言葉が通じない織子たちは、思うようには話せませんでしたが、いつも笑顔でうなずきました。

 しかし、どんなに村人に親切にされても、織子たちは故郷が恋しくたまりませんでした。織子たちは高良山や明星山の彼方の空を眺めては、故郷を想うのでした。まんだらに描く浄土こそが故郷のように思われました。そして、慈愛に満ちた仏様の中にやさしかった母の姿を見ながら毎日まんだらを織るのでした。

まんだらは出来上がると、お寺に持って行かれてしまいます。織子たちは、せっかく祈りを込めて織ったまんだらの代わりに、一つの丸い石を見つけ、まんだらに見立てて祈りました。その姿を見て、村人たちは、かわいそうに思いました。

「織子たちは、帰りたかかつよね。国ば想うて、あん石ば拝みござっとよ」

 「あん石は、まんだらん代わりたいね。まんだらさん石ったい」

 それから年々まんだらさん石に祈る織子たちの数が減っていくのに、村人たちは気がつきました。

 「機織りはきつかし、国は遠かで寂しかけん、病気になったったい。若かつに、こげんはよ次々に亡うなって、むごかこつ」

 村人たちは、織子の数が減るたびに、機織り小屋の近くに一つずつ塚を作って弔ってやりました。そして、とうとう織子は皆亡くなってしまい、塚だけが残りました。村人たちは、塚に登ったり、塚の上の木を折ったりすると、怪我をすると言い伝えて、それらを糸織塚と呼んで大事にしました。

 やがて機織り小屋もなくなり、織子たちが祈っていたまんだらさん石だけが残りました。村人たちは、見知らぬ土地で寂しく亡くなっていった織子たちを哀れに思い、お堂を建ててまんだらさん石を祀りました。そして、いつ頃からか、まんだらさん石に女の人が願いをかけると、かなうという評判がたつようになったということです。

 「かわいか娘ば授けてください」

 「息子によか嫁が来ますように」

 高良内の人たちは、まんだらさん石とともに、織子を七夕の織姫になぞらえて、機織りの筬をもち額に星を飾った織姫像、石の観音立像も祀って、今も花を供え、お参りし続けています。ぜひ一度高良内のまんだらさん石を訪ねてみて下さい。

 

         2019年8、9月

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久留米伝説めぐり No.22

            小僧さんとお不動さん  

       

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            不動明王心光寺境内)

 

 久留米には、寺町といって十七ものお寺が集まっている地域があります。その一番南の端に心光寺という浄土宗のお寺があり、そこに覚えの悪い小僧さんの伝説が伝わっています。秋のある日、訪ねてみました。寺町のお寺は、それぞれに個性があり、境内はいつでも開いているので、これまで何度も訪ねましたが、心光寺は初めてです。

 思い切って呼び鈴を鳴らすと、高齢のかくしゃくとしたご婦人が出てこられ、お寺の古い来歴について話して下さいました。ご住職の御母堂と仰って、何と九十六歳になられると知り、その記憶力とてきぱきとした応対に感心しました。境内にある大聖不動明王堂のお不動さんも歴史があると話して下さいました。早速お不動さんを拝ませていただきました。

 心光寺に伝わる小僧さんの話とお不動さん、何か関係があるのかもしれません。想像を交えながらお話ししましょう。

 

  心光寺境内の大聖不動明王堂の不動明王は、以前は今町(現中央町の一部、市役所西側から縄手にかけての地域))の神社に祭られていました。心光寺に遷ったのは、明治になって神仏分離令(1868年)が出た後のことです。それまでずっと今町で、城下の人々の信仰を集めていました。特に、元禄元年(1688年)第四代有馬藩主頼元の等身大の不動明王像が寄進されてからは、藩主御参詣の社として尊崇されていました。どうして藩主と同じ大きさの不動明王像なのでしょう。その背景には、第二代忠頼から三代頼利、四代頼元にいたるまで続いた藩の存亡に関わる難事がありました(「不動堂縁起」心光寺大聖不動明王堂説明書)。

 久留米藩は、元和7年(1621年)初代有馬豊氏丹波福知山から久留米城に入城したことに始まります。豊氏は二十一万石の領地経営を苦労しながら行いました。しかし、息子の忠頼は粗暴な性格の藩主で、参勤交代の途中家来に殺されてしまいます。後継ぎの長男松千代(四歳)も急死したため、御原郡小郡市)の大庄屋高松家の同じく四歳の男子を身代わりに立て、三代当主頼利として家督相続させました。頼利は家臣を慈しむ仁君で、筑後川の大石・長野堰もやり遂げましたが、十七歳で急死してしまいました(林洋海著『久留米藩』)。忠頼の二男頼元が四代藩主となり、次々に起こった難儀もようやく収まりました。

 頼元の生母貞昌院は、今町にあった不動社の不動明王をたいへん信仰しておりました。しばしばお参りしては、息子頼元の治政が平穏無事であることをお願いしていました。そして、ついに頼元と等身大の不動明王を寄進するに至ったのでした。不動明王とは、真っ赤な炎で煩悩を焼き尽くし、右手に持った剣で迷いを断ち切り、左手の綱で悪心を縛り、怖い顔にもかかわらず慈悲深く衆生を救ってくれる仏様で、一般にお不動さんと呼ばれ親しまれています。

その後、人と同じ背丈もある大きなお不動さんは、たくさんの人々から信仰されるようになり、色々な願を掛けに訪ねる人が後を絶ちませんでした。心光寺にいたお経をちっとも覚えられない小僧さんも、この今町のお不動さんに願掛けに行った一人でした。

昔、心光寺に、八歳になったばかりの男の子が城下の外れの山本町から修行に来ました。家は貧しい農家で、兄弟が多かったので、父親から口減らしのため小僧に出されたのでした。

「佐吉、お寺に修行に行ってくれんの。お前は、いつもぼーっとしておって、ほんに物覚えが悪かばってん、お経ぐらいは毎日あげとりゃ覚ゆるごつなろう」

母親は悲しくて、佐吉をじっと抱きしめ言いました。

「修行のきつかなら、いつでん帰ってきてよかよ。お前一人の食い扶持ぐらいは何とかするけんね」

佐吉が心光寺に行って三年が経ちました。朝早くから晩まで働きました。食事の用意、洗濯、何でも言われるままにしました。掃除も広い本堂から境内まで一人でやりましたが、いつもにこにこしていました。ところが、いつまでたってもお経は少しも読めるようになりません。皆、佐吉のことを馬鹿にしました。

「あいつは少し足らんごたる。何言われてもへらへらして」

和尚さんは、佐吉が一向にお経を覚えられないのに呆れました。

 「お前は、そいじゃあ、むぞかばってん坊主にはなれんぞ。今町のお不動さんなよう願いごつば聞いちくれるっちゅう評判じゃ。いっちょ二十一日ん間、願掛けして、行ばしてみんの」

 佐吉は、言われた通り、朝早く冷水を浴びる水垢離の行をした後、今町まで歩いて願掛けに行きました。ちょうど冬のことで、雪も積もって歩きにくくてたまりません。やっと着いてお不動さんにお参りしていると、時々願掛けに来ている人が声をかけてくれました。

 「小僧さんな何ば願掛けよらすとね。そげなん薄着で寒かろう。早よ、寺にお帰り」

ついに満願の二十一日目になりました。佐吉は、お不動さんの像の前に座ってお願いしました。

 「お不動さん、どうかお経ば覚ゆっごつならして下さい。お願いします、お願いしま・・・す、お願いし・・・・」

 佐吉は、寒さのあまり、ついウトウトして眠ってしまいました。すると、何と天から本物のお不動さんが目の前に下りてきました。真っ赤に燃える炎に包まれています。大きな目を見開いて、佐吉を睨みつけました。そして、右手の剣をさっと振り上げると、一瞬佐吉の口に突きこみました。

 「あっ」と佐吉が叫ぶや、お不動さんの姿は消えていました。

 お寺に帰った佐吉に、和尚さんが言いました。

 「佐吉、今日は満願の日じゃったな。どうじゃ。一ちょお経ばあげてみんね」

 皆、佐吉にお経があげられるわけがないと、くすくす笑いました。

 ところが、佐吉の様子がいつもと違います。本堂の阿弥陀様の前に座ると、一気にお経を唱え始めました。佐吉の口から、次から次によどみなく、お経が出てきます。和尚さんも皆も、ただただ驚くばかりでした。

 それからの佐吉は、以前のもの覚えの悪い佐吉ではなくなりました。難しいお経もどんどん覚え、皆馬鹿にするどころか、分からないことは何でも佐吉に聞くようになりました。

 その後、佐吉は京都の知恩院で修行に励み、立派なお坊さんになったということです。

 それにしても、佐吉がお経が読めるようになったのは、お不動さんのおかげだったのでしょうか。それとも、いつもにこにこして働く佐吉に奇跡が起こったのでしょうか。

         2019年、10,11月

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 久留米伝説めぐり No.23       

            荒(あら)籠(こ)に命を捧げた娘

                              

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        頼母荒籠記念碑(久留米市三潴町草場 天満宮境内)

 

 久留米の歴史は、筑後川との戦いの歴史であるといってもいいほど、どの時代も氾濫や日照りで苦しめられているようです。江戸時代寛文4~7年(1664-67年)の浮羽の五庄屋による水路開削の話は、今も小学校の教材に取り上げられていますし、帚木蓬生の『水神』には、その苦難が感動的に語られています。作品に登場する久留米藩普請奉行丹羽頼母(たのも)(1586-1681年)は、筑後川沿岸の治水、利水事業をいくつも行った優れた土木建築家です。三潴町の草場には、彼の名を付した頼母荒籠と呼ばれる石垣が明治までありました。荒籠とは円筒の籠に石を詰め込んだもので、それを組み重ねて水勢緩和のため河岸から流水中に突き出して築いた石垣のことでもあります。三百年以上も昔の土木技術でよくもこうした護岸工事ができたものと、本当に感心します。

 アフガニスタンの砂漠を潤した中村哲氏の山田堰のことを想い出しながら、草場を訪ねてみました。草場天満宮の入り口近くのお宅の古老の方にお尋ねすると、昔の記憶を呼び覚ましながら親切に教えて下さいました。現在氾濫防止のため広川草場地区築堤工事が行われているところに、以前は頼母荒籠跡という標識が立っていたそうです。子どもの頃はそこにじゅうごさん(龍宮様)と呼ばれる龍神を祀った神社、龍神宮があり、奉納相撲で大そう賑わっていたと懐かしそうでした。。現在、草場天満宮境内に龍神宮の石祠は移され、明治に建てられた頼母荒籠記念碑もあります。

 『三潴町史』に頼母荒籠の伝説が記されています。どんな話でしょう。想像を交えながらお話ししましょう。

 

 元和7年(1621年)、有馬豊氏久留米城に入城してから久留米藩が始まりますが、翌元和8年尾張国生まれの丹羽頼母は土木建築の手腕を買われ普請奉行を命ぜられ、豊氏に仕えることになりました。頼母は、藩内の治水、利水事業を積極的に推進し、筑後川沿岸の新田開発に大いに寄与しました。

 万治元年(1658年)の頃のことです。筑後川に広川が合流する草場あたりは、大きく蛇行していて、少し多い雨ですぐに洪水となってしょっちゅう田畑が流されていました。村人たちは、そこの川底には龍神、じゅうごさん(竜宮様)がすんでいて洪水を起こすと信じ、恐れていました。

 村人たちが、とうとうと流れる川を見つめながら心配していました。

 「今年もまたじゅうごさんが暴れらっしゃるとやろか。俺んとこの田んぼは、去年も一昨年も、水浸しじゃったもんの」

 「こげんいつも不作じゃ、食べていけん。ほんなこつじゅうごさんばなだむる方法はなかとやろか」

 じゅうごさんからほど近いところに田んぼをもつ五郎兵衛が、ため息をついて言いました。

「うちは年貢も納めきらん。娘のおみつが二十歳になったけん、奉公に出そうち思いよる」

 「おみっちゃんは、ほんなこついつも田んぼばよう手伝う働きもんばいねえ」

 丹羽頼母は、草場の百姓たちの窮状を知って、何度も視察に訪れました。そして、殿様から工事の許可を得ると、川の流れ、蛇行の具合、水深、工事方法などについてあれこれ考えました。

 「川がここで急に曲がっているため、流れが堤防に突き当たって氾濫するのじゃ。水圧をやわらげ、堤防が崩れるのを防ぐ方法はないものか。

岸から川の中に向けて石垣を突き出して築くといいかもしれん。だが、石はいくら重ねてもすぐに押し流されてしまうだろう。そうだ。荒籠、石を詰め込んだ円筒の籠で、水中に石垣を築けばいいのじゃ」

頼母は、役人を指導し、村人たちを集めて、工事に取りかかりました。村人たちは総出で、忙しい農作業の合間にじゅうごさんのいる岸に集まりました。

 「お奉行様は、あっちこっちに堰や荒籠ば造らっしゃった人じゃけん、きっとうまくいくばい」

 ところが、なかなかうまくいきません。じゅうごさん付近は川底が深く、荒籠が納まらないのです。それにせっかく組み重ねても、そこに大雨が降って押し流されてしまいします。まるで賽の河原で、村人たちもだんだん疲れてきました。

 頼母も、進まない工事に打つ手がなく、ふと冗談で言いました。

 「やっぱりここには龍神がすんでおって、荒籠なんぞ造るんで怒っておるのかなあ。いっそ人柱でも立てるか」

 これを聞いた村人たちは、その言葉を本気にしました。

「じゅうごさんの怒りばおさむるためには、人柱ば立てたがよか。明日の朝ここに全員集まって、着物の繕いに横布を使っておる者がおったら、そん者ば人柱に立てよう」

 翌朝、村人たちは皆集まって、互いに繕い方を調べました。横布を使って繕った着物を着ている者は見当たりません。誰も人柱に立ちたくないので、当然です。ところが、一人だけ横布で繕った者がおりました。五郎兵衛の娘のおみつです。五郎兵衛は絶句しました。

 「おみつ、何でお前...」

 「おとっつあん。うちは、みんなのお役に立てればよかとよ。きっとじゅうごさんの怒りは鎮まって、荒籠ができるばい。そしたら、草場の田んぼにも米が穫るるごつなるよ」

 おみつは、皆が悲しむ中、静かにほほ笑んで荒籠の底に沈み、人柱になったのでした。

 それからは、不思議なことに、雨もほとんど降らず、その間に荒籠を着々と築くことができました。村人たちは、おみつの献身にただただ感謝するばかりでした。頼母も、若い娘の健気な犠牲を哀れに思いつつもありがたく思いました。

 草場のじゅうごさんがあった辺りは、その後水害が少なくなり、米がよく獲れ、人々の暮らしもよくなったのでした。村人たちは、じゅうごさんを祀って、賑やかに相撲を奉納するようになりました。そして、頼母が苦心して造った草場の荒籠は、頼母荒籠と呼ばれ、明治21年(1888年)の筑後川改修工事まで200年以上もの間草場の治水に尽くしたのでした。きっとおみつが守り続けてくれたのでしょう。 

          2020年1、2月

                                  M.イイダ再話

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久留米伝説めぐり No. 24

                                            トンコロリンのお地蔵さん

                                                     

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           通八町目の五地蔵尊久留米市東町)

 

 現在、新型コロナウイルスに世界中が感染され、日本では第一波はほぼ収まりつつありますが、これからまだ第二波、第三波が来る気配で、不安、緊張が続いています。明治の初め、久留米ではコロナではなく、コレラが流行って、その時の伝説が伝えられています。

 コレラはウイルスではなくコレラ菌によって発症する感染症で、1884(明治17)年R. コッホによってコレラ菌が発見されてから、爆発的な流行は起こらなくなっています。日本では、江戸時代の安政文久年間、明治初めの10年、12年に大流行を見ました。人気TVドラマ「仁」に出て来る江戸のコレラは、文久2(1862)年のものです。ドラマは、コレラに罹った江戸の人々を主人公が救うという話で、コレラの症状がリアルに描かれていて、真に迫っていました。

 明治10年コレラは、神戸、横浜、長崎に停泊船の船員から発生し、明治12年の大流行は愛媛から九州、西日本、さらに東日本に広がったということです(酒井シヅ『病が語る日本史』)。久留米の伝説に出てくる明治のコレラは、よく分かりませんが、明治12年のものではないかと思います。久留米では、コレラはどのように語り伝えられているのでしょう。想像を交えながら、お話ししましょう。

 

 コレラは、コレラ菌に汚染された水や食べ物が口から入って感染し、米のとぎ汁のような下痢と嘔吐を繰り返して、体中の水分が抜けて脱水状態となり、皮膚が乾燥し、意識がなくなり、死に至るという恐ろしい感染症です。コレラ菌が発見され、治療薬が開発されるまでは、三日ほどでコロリと死んでしまうので、コロリと呼ばれ、狐狼狸、虎狼痢という字が当てられていました。コレラの恐ろしさをよく伝えている当て字です。長崎では、鉄砲でトンと撃たれてコロリンと倒れるような病という意味で、トンコロリンと呼んでいたそうです。久留米の伝説でも、トンコロリンと呼ばれています。

 明治初年、久留米ではトンコロリンが大流行りで、人々は恐れて、家に引きこもっていました。久留米の中心部にある通八丁目でも、次々に死者が出ていました。病気の流行る前は賑やかだった通りも、人影はなく、棺桶を担いでいく葬式の列が時折過ぎていくぐらいなものでした。

 今日は、母一人子一人でつましく暮らしていた文吉が、トンコロリンで亡くなった母の棺の後を泣きながらついて行っていました。文吉のおっかさんは、ほんの三日前まで元気に仕立物をしていました。ところが、急に吐き気がして、嘔吐と下痢が止まらず、体がどんどん茶色になり小さくなって、あっという間に亡くなってしまったのです。

「おっかさん、おれは今日からひとりぼっちだ。どげんしたらよかやろ」

身よりのない文吉の姿を見て、近所の人たちは、可哀そうに思いました。

「誰か文吉ちゃんの面倒ば見ちゃる者なおらんとやろか。文吉ちゃんな、ほんなこつよか子ばってん」

すると、近くに住む宮崎さんが言いました。

「よかよ。うちにはばさらか子どもがおるけん、一人ぐらい増えてん、どうもなか」

 宮崎さんは、とても信心深い人で、神様や仏様にいつも手を合わせ、弱い者小さい者を大事にしていました。それで、トンコロリンで次々に人が亡くなり、文吉のようなみなしごが何人も出てくるのを可哀そうに思っていたのでした。

トンコロリンが早く収まるようにと願い、日夜神仏を拝んでいた宮崎さんの夢枕に、ある夜、お地蔵さんが現れました。

「わしは、東の方角の古井戸の底にもう何年も沈められたままじゃ。それで、お前たちがトンコロリンで難儀をしておるのを助けることができん。悲しいことじゃ。早く井戸から上げて、大勢の人の目につくところに祭ってほしい。そしたら、トンコロリンを治してやろう」

 宮崎さんは翌朝出かけて、古井戸を探しました。井戸はすぐに見つかりました。宮崎さんは、近所の親しい人に手伝ってもらい、井戸さらえをしました。梯子を下ろし、水を汲みだすと、底に首のない石のお地蔵さんが五体も見つかりました。辺りを探すと、頭もありました。

「むぞかこつ。こげん首ば落とされて」

「こりゃ、維新の時の応変隊の仕業にちがいなか。皆の話じゃ、応変隊は仏なんち馬鹿にして、首ば切り落として、井戸に放り込んだそうじゃけん」

応変隊というのは、幕末、久留米藩で結成された武士や農民からなる兵士の部隊で、戊辰戦争(1868-69)で活躍しますが、過激な尊皇攘夷思想をもち、乱暴狼藉を働いたため、地元の評判が悪かったと言われています。

 信心深い宮崎さんは、お地蔵さんと首を急いで引き上げました。そして、頭と胴を丁寧につなぎ合わせ、大急ぎで小さなお堂を建て、お祭りしました。それから家族、近所の人、皆でお参りしました。

「お地蔵様、どうかトンコロリンば治して下さい。皆が死なんごつして下さい」

宮崎さん家の一人となった文吉も、熱心に拝みました。

「お地蔵様、おっかさん。おれは、こげん元気です。おれんごつ皆ば元気にして下さい」

 皆の願いが届いたのか、不思議なことに、それからは新しい病人も死者も出なくなりました。そして波が引くように、トンコロリンは消えていきました。

 この後、このお地蔵さんにお参りする人は後を絶たず、久留米一の霊験あらたかなお地蔵さんとして崇められるようになりました。宮崎さんたちは、子どもの守り本尊である地蔵菩薩を奉る8月24日の地蔵盆には、お地蔵さんの前掛けを新調し、お供えをして、子どもたちの無病息災を祈りました。ひと頃は、打ち上げ花火まで上げられていたそうです。

 新型コロナウイルスも、通八丁目のお地蔵さんにお参りすると、効き目があるかもしれませんね。

        2020年6、7月

        M.イイダ再話

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 久留米伝説めぐり  No.25            

           お殿様に幽霊

             

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久留米城二の丸跡(篠山町)

 来年2021年は、1621年播磨国篠山から有馬豊氏久留米城に入城してちょうど400年になる年です。明治4年の廃藩置県まで有馬藩は、11代の藩主によって治められてきました。11人の藩主、それぞれに個性があるようですが、中でも第7代の有馬頼徸(1714-83、在位1729-83)は、和算の大家で学問好きとして有名で、数学研究の大著『拾璣算法』(1768年)を残しています。ただ、治政の上では、空前の規模の宝暦一揆(1754年)が起こり、藩は危機的状況に陥ってしまい、学問のようにうまくはいかなかっようです。

 頼徸を取り上げた歴史小説「突出」(鳴海風著『和算の侍』所収)では、情深い寛大な藩主として描かれていますが、久留米には、幽霊に悩まされたという伝説が残っています。頭脳明晰な数学者に幽霊とはどうしたのでしょう。どんな話か、探ってみましょう。

 

 お城からだいぶ離れた津福に住む百姓の作兵衛と直吉は、このごろ会うとすぐに人別銀の話になりました。

 「あん宝暦一揆(宝暦4年、1754年)ん時は、ほんなこつ大事やったなあ。百姓ばかりじゃのうて藩の者だい(だれ)からでん税ばとるっちゅう、無茶苦茶な掟やった」

 「あい(あれ)からもう十五年ぐれえ経つけんど、またあん人別銀ば課するっちゅう噂が流れよる」

 人別銀というのは、藩士には高100俵につき銀札十匁、八歳以上の農民、工商人、僧侶、浪人にいたるまでの全領民に銀札六匁を毎月課すという過酷な人頭税(各個人に対して一律に同額を課する租税)のことです。久留米藩では、享保の大飢饉享保17年、1732年)で多数の餓死者を出し、その後も天候異常で不作が続き、幕府からは河川工事を命じられ、大阪や江戸の御用商人からは借銀を断られ、財政はひっ迫していました。それで、考えついたのが人別銀の徴税のやり方だったのです。

 これには、農民だけではなく領民皆納得がいかず、およそ5万人が蜂起し、女子どもまで10万人が加わるという日本史上有数の全藩的大規模一揆に発展しました。結局のところ、藩側は鎮圧に失敗し、一揆側の要求が聞き入れられ、人別銀は実施されず廃止されました。そして、一揆の農民もお咎めなしと決まりました。ところが、これを知った頼徸は激昂し、一揆を鎮静化した家老、奉行たちをお役御免、謹慎処分とし、一揆の農民を捕らえ、37人を首謀者として打首にしました(林洋海著『シリーズ藩物語久留米藩』)。

 作兵衛と直吉は、この処刑を昨日のことのようによく覚えていました。

 「あげんかむぞかこつは、なかったばい」

 「お殿さんな、何でん和算とかいうもんば勉強さっしゃって、偉か学者ちゅう噂ばってん。数字ばっかり見てござるけん、わしら百姓の苦労が見えんのんじゃろう」

 「いくら何でん、もう人別銀ちゃ言い出さんじゃろうなあ」

 「わしの遠縁の者が、二ノ丸ん下働きをしよる。そりから聞いたけんど、このごろお殿さんな元気がなかげな。何か幽霊に祟られて困っとるらしいばい」

 作兵衛は、このごろお城でもちきりの話を直吉にしてやりました。

 二の丸御殿にあるお殿さまの部屋は豪華な設えで、天井は金銀の細工が施されており、堅固な二重張りになっていました。

ある晩のことです。お殿さまが天井の絵を眺めながら寝ていると、生暖かい風が吹いてきて嫌な気分になりました。とその時、突然どくろが天井から落ちてきました。

「ワーッ。ヒーッ。ウーン」

お殿さまは、悲鳴をあげ、そのまま気絶してしまいました。控えていた宿直の侍が駆けつけて見ると、布団の上にどくろが一つ転がっていました。それからは毎晩天井を総点検しないと、寝られなくなりました。

 また、ある晩のこと、寝ていると、今度は畳が突然突き上げられ、右に左に大揺れし、まったく眠るどころではありません。すぐに床を点検し、畳も替えましたが、その後も安心していると、突然揺れが襲ってきて、ゆっくり眠れません。

 「ワーッ。目が回るっ。誰か、誰かおらぬか」

 お殿さまの安眠のため、毎晩家来が順番に寝ずの番をしました。ところが、真夜中になると、嫌な気配が御殿を包み、宿直の犬が奇妙な声をあげて咆えるので、番の家来は身の毛がよだって恐ろしくてたまりませんでした。

 とうとうお殿さまは、自ら開基した福聚寺の古月和尚さんや、徳雲寺の和尚さんを呼んで、お経をあげてもらいました。それからお殿さまは、少し心が落ち着き、眠れるようになったということです。

 作兵衛は言いました。

 「ありゃ宝暦一揆ん時、ひどかこつばした罰が当たったっちゅう噂ばい。あん時仕置きばされた者どんの霊が、お殿さんに祟ったんよ」

 「どげん和算ができたっち、情けがなけりゃ幽霊も出てくるっちゅうこつじゃろ。」

 お殿さまが寝んでいた二ノ丸御殿の跡には、現在ブリジストン工場が建っています。今は、ブリジストン通りの傍に小さな石柱が立っており、かすかに昔を偲ぶことができます。秋の日、篠山城址を散策し、ブリジストン通りを歩いてみました。実際に幽霊が出たかどうか、誰にもわかりません。ただ、人々の願望としては、あれほどの残酷な処刑をしたのだから幽霊に祟られるぐらいのことはあってほしかったのでしょうね。

 

        2020年10、11月

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久留米伝説めぐり

 

『童話 ペストの村にヒースの花咲く』(飯田まさみ著、青山ライフ出版、2020年6月、税込み1100円)を出版しました。

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久留米伝説めぐり 15

            懐良親王、戦いの生涯

             

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             平礼石(千光寺参道入口)

 

 あじさいで有名な千光寺(久留米市山本町)の奥に、南北朝時代(1336~92)、南朝のため筑後一円で戦いの一生を過ごした懐良親王(?~1383)のお墓があります。小高いあじさいの丘を越えたところに、木々に囲まれてひっそりと立っています。周りには、忠臣たちのものと思われる幾つか墓石が並んでいます。久留米には、

山本を初め、宮の陣、高良山などあちこちに懐良親王の話が伝えられています。親王が手植えしたという宮の陣の将軍梅は、今も毎年咲いて人々の目を楽しませていますし、親王が忠臣と別れの水杯を交わしたという高良山奥の院の清水は、なお多くの参拝者たちの喉を潤しています。これほど筑後に深い縁をもつ懐良親王とは、どういう人なのでしょう。千光寺奥の御陵墓、将軍梅、高良山懐良親王との関わりを中心に、親王の戦いの生涯について、想像を交えながら簡単にお話ししましょう。

 

 日本歴史上、北朝南朝、二つの朝廷があり、二人の天皇がいて対立していた時代がありました。南北朝時代と呼ばれ、京都の北朝に対して、吉野の南朝後醍醐天皇(1288~1339)が治めていました。後醍醐天皇南朝の勢力を拡大するため、皇子たちを各地に派遣しました。皇子の一人懐良親王(?~1383)は、わずか八歳で九州制覇の命を受け、海路九州に向かいました。征西将軍宮として派遣された懐良親王は、南朝方の豪族、武将のもとに滞在し、伊予、薩摩、肥後、筑後と彷徨い、戦い続けました。

 南北朝の抗争のうちに、懐良親王はいつの間にか三十歳にもなっていました。

 「吉野に朝廷をつくられた父君はとうに亡くなってしまった。だが、我はいまだに戦いの日々を過ごしておる。何のための戦いであろうか。我らのために、土地は荒れ、民の苦しみはいつ終わるとも知れぬ。悲しいばかりだ」

 懐良親王は、荒れ果てたた田畑を黙々と耕す百姓に声をかけました。

 「せっかく実りつつあった稲が、先だっての戦いで不毛になってしまったな。申し訳ない。なおまた励むよう頼むぞ」

 人々は、親王の優しい言葉を嬉しく思いました。

 「親王さんな、子どもん頃から苦労ばせらしゃったけん、わしらの苦労がようわかるばい」

 そして、ついに正平(以下、南朝元号)14年(1359年)七月、大保原を戦場とする筑後川の戦いが始まりました。高良山一帯に陣を張っていた懐良親王は、菊池武光らとともに四万の軍勢を率いて、善道寺町辺りの筑後川で、北朝方の少弐頼尚(1293~1271))率いる六万の軍勢との間に戦いの火ぶたを切って落としました。懐良親王の軍は、川近くにも陣を張り、現在の宮の陣の地名の由来となりました。また、戦勝を祈願して植えた紅梅一株は、今も宮の陣神社境内に将軍梅として残ってます。この時、菊池武光(?~1373)が戦いの後血まみれの刀を洗い真っ赤に染めたのが、大刀洗川だという言い伝えは有名です。

 八月、激戦の末、南朝方千八百人、北朝方三千六百人という多くの戦死者を出して、南朝方が勝利をおさめました。真夏のことで、おびただしい死体は腐って異臭を放ちました。高良山のお坊さんたちが、それを集めて供養したのが、宮ノ陣五郎丸にある五万騎塚だそうです。

しかし、懐良親王は、落馬し三か所も深手を負ってしまいました。親王は辛うじて千光寺近くの谷山城に引き揚げ、手当を受けましたが、暑いさ中、甲斐なく、とうとう亡くなられてしまいました。せっかく勝利を収めた兵士たちに親王の死を公にするのは、士気を下げることになると、親王の亡骸は千光寺で密かに火葬され、塚が建てられました。現在も、懐良親王御陵墓として残っています。

ところが、不思議なことに、懐良親王は、正平16年(1361年)大宰府の征西府をとり戻し、それから十二年もの間九州の南朝は最盛期を迎えたのでした。もしかすると、懐良親王は重傷から回復し、生きて再び征西将軍宮として活動されたのかもしれません。文中元年(1372年)、大宰府征西府は、幕府によって派遣された九州探題今川了俊(生没年不詳)の攻撃を受け、南朝大宰府を失ってしまいました。親王は、またもや高良山、菊池、八女へと彷徨うことになりました。高良大社奥の院には、今も人々に飲まれている勝ち水と呼ばれる清水があります。親王が忠臣たちと湧き出る水で別れの水杯を交すと、敵の攻勢を逃れることができたと伝えられています。

戦いの日々、懐良親王は、土地を荒らし、民の平和な暮らしを乱しているという慚愧の念をいつも心に抱いていました。天授3年(1377年)親王は高良下宮社に参拝し、世の平穏安定を祈願して願文を奉じました。

「長きにわたる戦火によって民は苦しみ続けている。これは、すべて我の徳無きがためだ。ああ、我が過ちは悔いて余りあり、我が咎はどれほど謝っても足りない」

親王が人々と直接交わることはほとんどありませんでしたが、長い年月の間、親王の優しさ、深い思いは人々にいつしか伝わっていました。

「わしたちも田畑ば耕しては、荒らさるっばかりで、ほんなこつどげんもならん。ばってん、親王さんも、むぞかのう。はよう戦ん終らんかのう」

こうして、八歳から何と四十七年に及ぶ長い年月、処々方々を彷徨いながら戦いに明け暮れた懐良親王は、弘和3年(1383年)、とうとう病のため星野で亡くなられました。

親王のお墓とされるものは幾つかあります。千光寺のお墓は、お寺の上の山の方にあるので、人々は麓で平たい石に座ってお墓に向かいお参りしたということです。平礼石と言って、今でも参道の入り口にあります。やがては滅びるとわかっていながら、その運命を受け入れていく懐良親王の懸命で哀れな様は、人間の一生に通じるようで、今なお伝説が語り伝えられる理由なのかもしれません。

        2018年7,8月

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久留米伝説めぐり  No.16

 

                           小早川神社と八ツ墓

 八ツ墓というと、すぐに連想するのは横溝正史推理小説『八ツ墓村』ですが、久留米には実際に八ツ墓があります。お墓は元は西鉄久留米駅近くの日本生命ビル裏にあったのですが、現在は寺町の医王寺に移されています。ビルの裏には慰霊碑跡があり、説明板が建っています。ずい分前、八ツ墓という名に惹かれて、お寺もビル裏も訪ねたことがありますが、両方とも、名前のような不気味な雰囲気はなく、ほっとしたのでした。お墓には、戦国時代殺された高良山座主と家来たちが葬られているそうです。では、一体誰が殺したのでしょう。それは、篠山城址にある小早川神社と関係があります。小早川神社と八ツ墓、ふたつに関わる伝説を、想像を交えながらお話しましょう。

                                                       

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                                                  小早川神社(篠山城址内)

 

 今から四百年以上昔、戦国の世、筑後久留米の領主は毛利元就(1497-1571)の九男毛利秀包(1567-1601)でした。秀包は十七歳の時関白秀吉(1537-98)の人質となって大阪城に行き、秀吉の近習として可愛がられました。天正14(1586)年から翌年までの秀吉の九州征伐で大活躍し、筑後では豪族草野氏を攻め滅ぼし、秀吉から久留米の地を拝領しました。

 この時、三十五万もの大軍を率いて九州に乗り込んできた秀吉は、高良山の麓の𠮷見岳城に陣を構えました。高良山は、僧麟圭(?-?)が座主として君臨し、僧兵や武士千五百以人以上を従えていました。

 「高良山は、神功皇后にゆかりのある由緒ある神社と聞く。だが、今はこの日の本にわしより力のある者はおらぬ。高良山の座主の挨拶はまだか。さっさと来るように申せ」

 麟圭は、内心秀吉を馬鹿にしていました。

 「あの成り上がり者が。わしは、俗世の権力なんぞに負けんぞ。じゃが、面倒にならぬよう、ちょっと出かけるとするか」

 麟圭は、万が一を考え、鎧の上に僧衣を羽織って秀吉に会い、通り一遍の挨拶をしました。秀吉は、怒り心頭、直ちに高良宮の領地を取り上げ、秀包にやってしまいました。

 秀包は、久留米城(現在の久留米大学医学部付近?)を築き、住んでいました。そして、豊後のキリシタン大名大友宗麟(1530-87)の娘を妻にして、自らも受洗し、シメオンという洗礼名を授けられました。久留米にも神父が住み、信者がどんどん増えていました。

 村では、麦踏みをするとき、畦作りをするとき、ロザリオの祈りを唱える姿が見られるようになりました。また、農作業の合間には、神父の話に耳を傾けて、平安を得るようになりました。

 「関白様がおらんごつなって、静かになったばい。ばってん、領主様と座主様がえろう仲が悪か。また、戦がはじまるんじゃろか。領主様はわしらと同じようにデウス(神)様を信じとらっしゃるけん、戦はなかろうもん」

 秀包は、麟圭に手を焼きました。秀吉から信頼され、久留米領主となり、高良山まで与えられたのに、期待に沿えません。麟圭は、年貢も治めず、まったく言うことを聞こうとしませんでした。秀包は、何度も高良山を攻めましたが、地の利を知らないため、歯が立ちません。それで、麟圭の縁者を家臣にめとらせ、油断させるという策を講じました。

 天正19(1591)年5月13日、秀包は麟圭を城に招き、酒宴を開きました。麟圭は、息子の了巴(?-?)と六人の家来を連れ、やってきました。八人は手厚いもてなしを受け、満足して帰りかかった時、妙な気配を感じました。八人は、敵の目をくらまそうと、途中処々方々に馬を走らせました。しかし、秀包は、用意周到にどの帰り道にも家来を待ち伏せさせていました。麟圭たちは八人皆、馬にむち打ち、逃げ回りしましたが、無残に斬り殺されてしまいました。

 「あげん逃ぐるもんば、追い回しち、むごか殺し方ばい」

 「なんち、むぞなこつ」

 村人たちは、八人の遺体を集めてまとめ、もと高良山への古道筋に墓を建て供養しました。西鉄久留米駅近くの日本生命ビルの裏手になります。

 「秀包様はキリシタンでござらっしゃるのに、何であげなこつさっっしゃったかのう。デウス様は、人を殺すべからずち、戒めちおらるるがのう」

 「わしらは、デウス様ん教えば守らなばい。座主様たちが天国に行かるるごつ、祈ろう。そして、領主様ん罪ばわしらが償おう」

 八人を祀った墓のそばには玉椿が繁っていたため、玉椿の紋の献灯が下げられ、墓は玉椿社と呼ばれるようになったそうです(医王寺『八つ墓の由来』)。

 秀包は、秀吉が天正20(1592)年から慶長2(1598)年の間、二度にわたって行った朝鮮出兵で戦功をあげますが、慶長5(1600)年の関ケ原の戦いで西軍につき、敗北します。そして、久留米城も明け渡し、長門国(今の山口県の西部・北部)に改易され、翌慶長6年35歳で病没します。生まれは毛利氏ですが、兄小早川隆景の養子となったため、ずっと小早川姓を名乗っていました。ところが、関ケ原の戦いで隆景の養子小早川秀秋(1582-1602)の裏切りがあったことを快しとせず、元の毛利姓に戻ったのです。

 現篠山城址の広い庭の一隅に、秀包を祀った小早川神社があります。小さな古い石の祠です。神社名は、久留米時代の秀包の姓に従っているのでしょう。久留米城主であった頃、秀包は熱心なキリシタンで、教会堂を建て神父を招き、一時は領内に七千人の信徒がいたと言われています。そして、伴天連追放令天正15年秀吉が出した禁止令。キリシタンを禁じ、バテレンを国外追放にするという命令)が出た後も、まだ熱心に信仰を続けました(帚木蓬生『守教』)。

小早川神社の扉には、信心深かったというキリシタン秀包を表しているのでしょう。アンドレアス十字(キリスト教で用いられる十字架を模したシンボル)というX字型の十字が刻まれています。そして、その上に、神社の幣が飾られています。苔むした祠に揺れる幣の白さを見ると、謀略で麟圭たちを斬殺した秀包の残酷さもすべて浄化されたのだと思えてきます。村人たちが建てた八ツ墓は、現在、寺町の医王寺に移されています。立派な自然石の墓には、今も花が手向けられ、寺にはたくさんの椿が咲いています。八人の霊もまた、争いを遥かに超えて慰められているのでしょう。

         2018年9,10月

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久留米伝説めぐり  No. 17  

                                久留米のマリア観音

                          

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                                            慈母観音像  (成田山 久留米 分院)

 

 久留米市街から国道三号線で南へ向かうとほどなく、大空を背にひときわ高くそびえ立つ白い観音像があります。成田山分院の慈母観音像(高さ62メートル)です。建てられてまだ三十六年ばかりの新しいもので、当初はその高さに驚かされましたが、今では久留米の名所といった感じになっています。赤ん坊を抱いた優しい姿には、心が癒されます。初めて見た時、何となく聖母マリア様かと思いましたが、よく見ると観音様でした。しかし、見間違ったのも無理からぬことで、潜伏(隠れ)キリシタンの時代、信者たちが密かに祈りをささげていた慈母観音像があったのですから。それは、マリア観音と呼ばれています。実は、久留米にもマリア観音像が本町の無量寺というお寺にかつてあって、信仰されていたという伝説があります。どんな話でしょう。想像を交えながら、お話ししましょう。

 関ケ原の戦い(1601)前後、筑後キリスト教信仰が盛んでした。九州征伐(1586-87)の功により秀吉から久留米を拝領し、久留米城を築いて住んだ毛利(小早川)秀包(1567-1601)は、自身も熱心なキリシタンでした。秀包は、豊後のキリシタン大名大友宗麟(1530-80)の娘、桂姫を妻に迎えていました。『フロイス日本史』(1549年以降のキリスト教布教史)の著者として有名なルイス・フロイス神父(1532-97)が息子元鎮の洗礼のため久留米を訪ねたこともありました。久留米には、伝道所や天主堂、教会が建てられ、最盛期には信者が七千人もいたと言われています。しかし、関ケ原で豊臣方についたため、秀包は改易され、ほどなく病没します。

 秀包の後、慶長6年(1601年)筑後の領主となった田中吉政(1548-1609)は、キリシタンにきわめて寛容で、保護していました。キリシタンを苦しめる者は罰し、彼が住む柳川城下には教会が建ち、キリシタンによって西洋音楽や美術が伝わっていました。

 秀包、吉政の頃、キリスト教を取り巻く環境は厳しくなる一方でした。天正15年(1587年)、豊臣秀吉バテレン追放令を出して、禁教政策を推進していました。江戸幕府もその方針を引き継ぎ、慶長17年(1612年)幕府直轄領に、翌年全国に禁教令が出され、寛永14年(1637年)から翌年にかけて島原の乱がおこりました。貧しいキリシタンの百姓たちが厳しい弾圧と重税に対して天草四郎(1621-38)を頭に原城に立てこもって戦ったのです。乱は治まりましたが、この後、江戸時代の間中ずっと踏絵や宗門改めなどが徹底され、キリスト教信仰は、明治まで潜伏キリシタンの人々によって細々と存続しただけでした。

 バテレン追放令や禁教令のもとで、秀包や吉政のキリスト教に対する熱心さや好意は、勇気ある行動でした。田中家は、慶長14年(1609年)吉政が亡くなり、間もなく嫡男忠政が急死し、廃絶しました。

そして、元和6年(1621年)福知山の有馬豊氏(1569-1642)が久留米藩主となりました。島原の乱の時には、豊氏、忠頼(1603-55)父子も出陣し、七千人以上もが出兵し、千二百人からの犠牲者が出たということです。有馬氏は幕府の政策に従って、厳しい禁教を行いました。しかし、秀包、吉政の時代に植え付けられたキリスト教信仰の根は、たやすく断ち切られるものではありませんでした。

城中に住む侍に一人のキリシタンがおりました。侍は、三十センチくらいの小さな観音像を毎日オラショキリシタンの祈り)を唱えながら拝んでいました。

「わしが拝んでいる観音様は、慈悲の心で子どもを見守る観音菩薩様ということになっておるが、じつはマリア様じゃ。菩薩様と同じように、赤ん坊を抱いておられるが、顔かたちや髪形をよう見たらマリア様だとわかるだろう。見つかったら、火あぶりか磔だ」

侍はどうしたらいいか悩みました。

「町でも村でも、隠れているキリシタンを見つけようと厳しい取り調べがあっておる。イエズス様のお顔を踏まされたりして。密告した者には褒美の金も出るという。やはりマリア様を持っていては危ない。

そうだ。奥女中の桔梗殿は、昔からの知り合いだ。灯台元暗しというから、城の奥の方が、あんがい安心かもしれん。安産と乳授けの観音様じゃと、桔梗殿には言おう」

桔梗は、マリア様とは疑いもせず、侍の頼みを引き受けました。

「よかですよ。優しかお顔の観音様ですね。おなごが拝めば、余計ご利益があるっでしょ」

ところが、その後キリシタン探しはますます厳しくなっていきました。桔梗は、預かった観音様を日々眺めているうちに、だんだん不安になってきました。

「この観音様は、マリア観音やなかやろか。見つかったら、どげんしよか。

そうそう。知り合いの無量寺さんに預かってもらおう。あそこのお坊様は心の広かお方んごたる。安産と乳授けの観音様だと言うたら、気持ちよう引き受けてくださるやろう」

桔梗は、こっそり観音様を抱えて無量寺に持っていきました。無量寺の住職は、何も疑わず、気持ちよく引き受けてくれました。

「優しいお顔の観音様じゃ。お堂にお祭りしてあげよう」

やがて赤ん坊を抱いた観音様を拝もうと、たくさんの女の人たちが無量寺を訪れるようになりました。

「うちは、ずーと子どもに恵まれんやったばってん、あん観音さんにお参りしたら、えろう安産で生まれたつよ。ありがたかこつ」

「うちは、お乳が出らんでね。産まれてからずっとお腹をすかせて泣いてばかりやったんよ。ばってん、無量寺の観音様に毎日お参りしよったら、よう出るごつなったつよ。そいけん、今日は、お礼にこん乳首ばお堂に下げに来ましたったい」

赤ん坊を抱いたその女の人は、観音様に自分で作った、丸い乳首のついた布の乳房をお供えしました。こうして、お堂の観音様の前は、手作りの乳首でいっぱいになりました。

 その後、キリシタン禁制の長い江戸時代、そして明治になって禁制が解かれた後も、観音様は、長い間、多くの人々の信仰を集めたということです。ところが、残念なことに、昭和二十年(1945年)の久留米空襲で無量寺も爆撃を受け、、安産と乳授けの観音、実はマリア観音は焼失してしまったそうです。今は伝説としてのみ残る無量寺マリア観音。その言い伝えの背後には、久留米の潜伏キリシタンの歴史が垣間見えます。 

       2018年11,12月

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  久留米伝説めぐり No.18

                   虫追い祭りの大合戦

                                   

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                                 虫追い祭りの馬(益永選果場)

 

  田主丸に虫追い祭りという稲の害虫を追い払う祭りがあります。江戸時代から三百年以上も続くもので、現在は三年毎に開かれているそうです。六年前に一度見物に行ったことがあります。大勢の若者たちが鉦や太鼓の囃子に合わせ、武者姿の二つの藁人形を戦わせる勇壮な祭りです。高さ三メートルばかりの人形が相手を倒そうとしますが、傍にやはり藁で作った大きな黒い馬がいて戦いの邪魔をするので、なかなか勝負がつきません。馬だけは祭り後もとっておかれていると聞き、今年のお正月明け、馬のある(いる?)益永選果場(久留米市田主丸町)に行ってみました。親切な園芸流通センター(うきは市吉井町)の方がわざわざ連れていって下さいました。真っ黒な胴体の馬が座っていました。二人の武者と馬が主役の祭り、どういう謂れがあるのでしょう。想像を交えながらお話しましょう。

 

 今から八百年以上昔、平安時代末期のことです。栄華を誇った平家は、清盛没後勢力は衰えるばかりで、源氏に負け続けていました。寿永2年(1183年)俱利伽羅峠(富山県と石川県の県境)の戦いで源氏の木曽義仲(1154-84)に大敗し、加賀の国篠原(加賀市篠原町)に陣をしいて義仲軍に向かいました。次々に敗走する平家軍の中に、勇名を馳せてきた武将斎藤別当実盛(1111-83)がおりました。実盛は齢七十を越えた老齢の身でしたが、黒々とした髪で錦の直垂を着た若々しい姿で、ただ一騎踏みとどまって戦い続けていました。

 義仲の家来でまだ二十二、三歳の手塚太郎光盛(?-1184)は、自分が名乗っても実盛は名乗ろうとしないのを不思議に思いながら、懸命に向かっていきました。実は、実盛は光盛の母の仇で、光盛が成長した暁には討たれてやろうと思っていたのです。若い光盛に攻められ、実盛のまたがっていた馬が稲の切り株に躓いてしまいました。落馬して倒れた実盛は、光盛に首をとられてしまいました。

義仲は、昔幼い頃実盛に命を助けられ、それを忘れていませんでした。実盛の首を見せられた義仲は、黒い髪ではあるが実盛ではないかと思い、首を洗わせました。すると白髪頭の老人の実盛でした。義仲は、命の恩人を討ちとってしまったことを嘆き、光盛は主人の恩人の首をとったことを悔やみました。

 この実盛をめぐる義仲、光盛の話は、『平家物語』、『源平盛衰記』、文楽、歌舞伎などで流布されて、江戸時代には人口に膾炙していたようです。芭蕉(1644-94)も、元禄2年(1689年)『奥の細道』行脚の途中この地に寄って、「むざんやな 兜の下の きりぎりす」という句を詠んでいます。筑後でも、芝居や物語で、老いてなお戦う実盛の姿に触れ、人々は心を打たれていたことでしょう。

文楽や歌舞伎の話が流布して人々を楽しませていた一方、江戸時代は、ウンカやイナゴといった害虫によって稲の収穫が減り、困っていた時代でもありました。享保17年(1732年)の飢饉では、特に西日本で害虫が異常発生しました。ウンカは、稲の実(さね)につくため、文楽、歌舞伎で馴染みの斎藤実盛の名から実盛虫と呼ばれるようになっていました。

 どうにかして虫を追い払うことはできないものか。各地で、害虫退治と五穀豊穣を願って虫追いの行事が見られるようになりました。ウンカつまり実盛虫を追う儀式、祭りです。筑後でも虫追い祭りが行われるようになりました。

 「こげん虫ばっかりふえておおごつばい。どげん米が穫れんでちゃ年貢の取り立ては厳しかもんねえ」

「実盛虫ち言うとは、あん芝居の実盛さんが稲ん株につまづいたけんやろ。実盛さんな稲ば恨まっしゃって、虫になったとばい」

 「実盛さんな木曽義仲がこまか時命ば助けたり、光盛さんに仇ばうたせちやろうとしたりしたとたい。そげなん情け深か実盛さんが、稲の害虫になったっちゃ、むぞかなあ」

 「よかこつのある。実盛さんの人形ば作って、それに害虫の霊ば封じ込めて、光盛さんに追い払うちもろたら、どげんやろ」

 「実盛さんも光盛さんに追い払うてもろたら、本望じゃろう」

 田主丸の人々は、藁で実盛と光盛、さらに実盛の愛馬の人形を作りました。人形を掲げて神社に参拝した後、鉦や太鼓を鳴らしながら村を練り歩き、二つの人形を戦わせるのです。馬も実盛を助けようと、戦いの邪魔をします。最後は、実盛は負けて、かがり火の中に投げ込まれてしまいます。光盛は、刀折れ矢尽きた姿で、村の入り口に立って、再び害虫が入って来るのを防ぐのでした。

 全国あちこちに伝わる虫追い祭り、それぞれ違いはあるようですが、田主丸の虫追い祭りは、実盛と光盛の合戦が迫力あり、大いに見ごたえがあります。特に、夜には松明をともして巨勢川で戦うらしく、一度見てみたいものです。

 それにしても、加賀の国の実盛と光盛の戦いが遠い筑後の野でくり広げられていることには、ほんとうに驚かされます。江戸時代は、文化の伝播力が相当に大きかったというべきなのでしょう。、源平合戦を基にした歌舞伎や文楽などが一般に楽しまれ、それを題材にして、虫追い祭りのような民俗的行事が生まれたのですから。

 祭りの時、見物人たちはいつのまにか本来害をなし退治さるべき実盛も応援しているのは、不思議です。実盛は害虫にされて、どう思っているのでしょう。幼い義仲を助けたり、光盛に名乗らず仇をとられてやろうとしたりして、慈悲心に溢れた実盛ですから、害虫になって人々に追い払われてやることぐらい、それで稲がよく実るようになるのであれば、構わないのかもしれませんね。

        2019年、1,2月

         M.イイダ再話

         南吉朗読会協力

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久留米伝説めぐり   No. 19

          不思議な夢、朝日の子

 

                     

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            神子栄尊禅師座像(朝日寺)        

 

 鬼夜で有名な玉垂宮近くの広川沿いに夜明山朝日寺(ちょうにちじ)(大善寺町夜明)という古刹があります。お寺の固有名詞にしては普通名詞っぽい名前ですが、『歴史散歩No.2』(久留米市文化財保護課発行)によれば、鎌倉時代13世紀半ばの創建で、古い伝説の伝わる由緒ある寺です。平家とも関わりがありそうだというので、梅のほころぶ二月のある日、訪ねてみました。

 寺を開いた神子栄尊禅師の座像を見せて頂こうと、思い切って呼び鈴を押すと、

ご住職が出てこられました。そして、新築間もない本堂に通され、伝説や臨済宗

話などいろいろと聞かせて下さいました。帰りには、丁寧に御下がりのお菓子まで

頂き、大いに感激しました。

 親切なおもてなしがうれしい朝日寺、ここにはいったいどんな話が言い伝えられて

いるのでしょう。想像を交えながら、紹介しましょう。

 

 平安時代の終わりごろ、平清盛(1118-81)の率いる平家が栄耀栄華を誇っていました。その驕り高ぶりが日に日にひどくなって、目に余るようになり、ついに平家一門の中からも平家転覆を図る者たちが出てきました。治承1年(1177年)都の西、鹿ケ谷の山荘でその陰謀がめぐらされましたが、発覚して、俊寛僧都(?~1179)、藤原成経(?~1202)、平康頼(?~1220)ははるか薩摩の沖に浮かぶ絶海の火山島鬼界ヶ島(現在の鹿児島県薩南諸島の一つ)に流されました。

 平康頼は平家の武士で、流罪の途中出家するほど信心深く、鬼界ヶ島でも岩山に熊野権現を祭り、千本の卒塔婆に歌を書きつけ、都に届くよう祈りを捧げました。そして奇跡的なことに、その内の一本が、厳島に流れ着き、ついに清盛の手に渡りました。清盛は、高倉天皇の后となった娘徳子の安産のため大赦を行い、成経と康頼は許され、都へ帰ることになりました。

 康頼は、鬼界ヶ島流罪中衣食を送り助けてくれていた平教盛(清盛の弟、1128~85)の領地肥前国鹿瀬荘(佐賀市嘉瀬町周辺)に寄り、しばらく滞在し休養をとりました。筑後川沿いには、平家が推進していた日宋貿易の拠点があり、三潴にはそれで富を蓄え、三池長者と呼ばれていた藤吉種継がいました。

 康頼は、ある時一人さまよい歩くうちに、三潴の霰川(現在の広川)までやってきました。ほとりに、小さなお堂があります。

「こんなところに、お堂とは。ちょっとお経を唱えていこう」

 お堂の中には、観音様が祭られていました。念仏を唱え、お堂を出た途端、びっくりしました。入り口に、観音様が立っていたからです。しかし、よく見ると人間の娘で、そのあまりの美しさに康頼は見間違ったのでした。康頼はたちまち魅了されてしまいました。

 「わしは、平康頼と申す者だが、驚かせてしまったようだな。この近くに住んでおられるのか」

 「はい。私は藤吉種継の娘千代と申します。朝昼、この観音様にお参りしております」

 「種継の姫でござったか。種継の名は、よく知っておる。ちょっと寄って参ろう」

 千代姫は信仰一筋で、どんな縁談にも見向こうとせず、観音参りに明け暮れていました。 お参りの途中、田畑を耕す村人たちをねぎらい、小昼を差し入れたりしていました。

 「ほんなこつやさしか姫さんじゃ。観音さんのごたる。長者どんがどこにも嫁に出したがらんのも無理なかばい」

 「こん前は、京の御所から差し出せと迎えに来た者を、長者どんな人間ば焼くときの臭いのするツナシ(ニシン科の魚)を焼いて、娘の火葬だと言って騙したそうな。そいからわしたちは、ツナシば子の代わり、コノシロと呼んでおるんじゃ」

 「わしらも、姫さんにはいつまでも三潴におってほしかあ」

 お堂から聞こえていた康頼のお経の声の美しさにうっとりとしていた千代姫は、お堂から出てきた康頼を一目見た途端、その気品あるたたずまいに惹きつけられ、いそいそと父のもとに連れていきました。

 種継は驚きましたが、丁寧にもてなし、泊めました。 しかし、実のところ、種継はいくら赦免されたとはいえ、清盛の手前、罪人であった康頼を歓迎はしておりませんでした。その夜、千代姫は朝日を飲み込むという不思議な夢を見ました。翌朝、康頼は去りがたい思いを抱きながら帰っていきました。

それからしばらく経って、千代姫は男の子を生みました。種継は、赤ん坊が口から光を出しているのを見て驚き、平家の罪人であった康頼の子にちがいないと思いました。そして、咎められることを恐れ、近くの草むらに捨ててしまいました。村人たちは、口から光を出す子どもに恐れをなして、可哀想に思いつつ遠巻きに囲んでいるばかりでした。

「こげなんところに捨てられて、むぞかのう」

「口から光ば出しとる子どもちゃ、初めて見たばい」

そこに山本の永勝寺の元琳和尚が通りかかりました。和尚は、赤ん坊を寺に連れて帰りました。千代姫は子どものことが心配で、家を出ると、和尚に願い、一生永勝寺で過ごしたということです(西原そめ子『筑後の寺めぐり』)。和尚に口光と名付けられた赤ん坊は利発で、修行を積み、宋にまで留学し、後に神子栄尊禅師という禅宗の立派な僧となりました。そして、各地に禅寺を開き、生まれた三潴の地には、母が懐妊の時見た夢に因んで名づけられた朝日寺を建てました。

平康頼は、子どもが生まれたとは知らないまま都に帰り、折に触れ千代姫のことを懐かしく思い出したのでした。信心深い康頼は、仏教説話集『宝物集』を書き、鬼界ヶ島に一人残され亡くなった俊寛を供養し続けたということです。

素朴なたたずまいの久留米のお寺に、『平家物語』の中でも有名な鬼界ヶ島の話に関わる伝説が伝わっているとは、驚かされ、感動させられます。

         2019年、4,5月

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   久留米伝説めぐり No. 20

                        月の神様、眼の神様

         

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           月読神社(久留米市田主丸東町)

 

 七、八年前、田主丸の月読神社(田主丸町田主丸東町)を訪ねたことがあります。近所の方から、眼の神様として有名で、毎年一月の二十三日から二十五日まで三夜様という大祭が催され、眼病平癒を願って大勢の人が参拝に訪れると聞き、興味深く思ったからです。天照大神の弟で月の神様である月読命が、眼病を治すとはどういうことでしょう。鳥居の左右の石灯篭の上にも、そして狛犬の左右の石灯籠の上にも、月の神の使いである兎の像があったのが、印象的でした。最近、再び訪ね、境内の横に住んでおられる宮司さんから、車で数分ほどの二田というところにも月読神社があり、そこが元であるとお聞きしました。行ってみると、二田地区の公民館と同じ敷地内にある小さな神社でした。どうして田主丸に二つも月読神社があり、眼の神様として信仰されるようになったのでしょう。それについては、由緒や伝承がいくつか残っています(『田主丸郷土史研究 第二号』)。想像を交えながらお話ししましょう。

 

 戦国時代、御原郡(主として現在の小郡市)に高橋城というお城があり、高橋長種というお殿様が住んでおりました。長種は、城の守護神として月読命を城内に祭っていました。

 ある時、長種は重い眼病に罹り、日に日に視力が衰えてほとんど物が見えないほどになってしまいました。眼に効くという薬をあれこれ試しましたが、いっこうに良くなりません。あちこちのお寺や神社にも詣でましたが、効き目がありません。

「そうだ。城に祭っている月読命にまだお願いしていなかった。月読命は月の神様だ。月が夜を照らすように、もしかしたら眼の見えぬ私の暗い世界を照らして下さるかもしれぬ」

 父の伊邪那岐命イザナギノミコト)が黄泉の国から帰って禊祓(神に祈って穢れ、災いを取り除くこと)をした時、左の眼を洗って生まれたのが日の神様天照大神で、右の眼を洗って生まれたのが月の神様月読命だったのです。

長種は、日夜月読命に祈りました。特に、月の出を待って願うと適うという二十三日の夜は、一心に祈願しました。

ある日、いつも通りお参りして、闇の中を手探りしながらお城に帰っていると、何かぼんやりと明るい光が見えます。

「あっ、光が見える。嬉しや」

思わず近づき触れると、それは、冷たく光る鏡でした。長種は、両手で持ち上げ、じっと見つめていました。ほどなく長種は、澄んだ鏡に映る自分の顔が見え始めました。

「ああ、見えた。見えた。ついに目が見えた。月の神様のおかげだ。月読命に感謝せねば」

 長種は、鏡をお城の月読神社に神霊として大切に奉納しました。やがて年が経ち、長種は病を得て、臨終間近になりました。いつも信仰していた月読神社のことが気がかりだった長種は、弟の次郎三郎に言いました。

 「今は戦国の乱世だ。この城もいつ攻められるか分からぬ。月読神社も危険に陥ろう。わしには子がないので、お前に頼む。

遁世して、神社の御神霊(神鏡)を大切にいただいて、国のあちこちを回り、御神霊にふさわしい地を探してほしい。よい地を見つけたなら、そこに社を建て、御神霊をお納めし、末永く仕えてくれ。そうすれば、わしもあの世で、安らかに眠ることができよう」

 次郎三郎は、遺言に従い、神霊を背負って国を巡りました。そして、竹野郡二田村(田主丸益生田二田)に着いた時、急に神霊が重く感じられました。そのため、足が前に進みません。

「ここだ。こここそ月読命の地だ」

 次郎三郎は、そこに小さな社を建て、神霊を安置しました。それは、天文三年(1534年)のことで、月の出を待って願い事をすれば適うという一月二十三日でした。

それから次郎三郎の子孫は、百年二百年と祖先の言い伝えを守り、月読命を深く信仰し続けました。やがて二田の小さな社の神様に、眼を治してもらおうと近くから遠くから人々がお参りに来るするようになりました。

「あん月の神様ば拝むごつなって、また縫物もできるごつなったつよ」

鷹取山(耳納連山の主峰)もかすむごつなっとったばってん、よう見ゆるごつなったたい。ほんなこつ嬉しか」

「わしは、病で全然見えんごつなっとった。昼も夜も同じ闇ん中におった。ところが、ある時、夢に月読の神様ん現れてっさい、二田までお祈りに行けっちゅうお告げがあったけん、ここまで連れてきてもろうた。お参りば続けよったら、二十日も経たんとに両目とも見ゆるごつなった。もう嬉しゅうて嬉しゅうて。遠かばってん、こうしてお礼参りに来よったい」

 寛延二年(1749年)には、柳川立花藩のお殿様が、眼を患った姫君のため柳川から代わりの使者をたて祈願させたということです。たくさんのお供え物を載せた車を仕立て参拝し続けたところ、姫の眼はすっかりよくなったのでした。

こうして月読神社の評判は高くなる一方で、隆盛を極めていきました。ついに田主丸の有志の人々の要請で、明治十三年(1880年)二田からやや離れたところにある馬場瀬神社(田主丸町田主丸東町)の境内横にも社殿が建てられました。これが東町の月読神社なのです。神社の宮司さんは次郎三郎の子孫だということです。

東町の月読神社には、今も眼病平癒の御利益を信じる人々が参拝に訪れ、毎年一月二十三日の大祭には、境内に植木市が立つほどの賑わいを見せ、地元の人々からは三夜様と呼ばれ親しまれています。何百年もの間、筑後の一隅で月の神様が眼の神様として人々の信仰を集めてきたとは、素朴に驚かされされますね。

         2019年6、7月

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   久留米伝説めぐり No.21

          まんだら織女とまんだらさん石

 

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         まんだらさん石(右端)を祀ったお堂

 

 高良内町というのは、高良山(標高312m)と明星山(標高362m)に抱かれた高良川に沿う静かな山間の町です。先日西鉄バス竹の子行きに乗って、初めて行ってみました。まんだらさん石の伝説を訪ねてです。その後、夜に高良川の上流にある蛍の名所親水公園も訪ね、ふわふわと飛ぶ蛍を楽しみました。まんだらさん石というのは高さ30センチくらいの丸い石で、竹の子バス停からほど近い井堀集落の民家の一角にある小さなお堂に祀られています。お堂には鍵がかかっていましたが、ガラス超しに一緒に並んだ機織りの筬を持った織姫像、それに観音様も見え、拝することができました。お堂の近くの個人宅の庭には糸織塚と呼ばれる大小の石もあるらしいのですが、伺えませんでした。このまんだらさん石や糸織塚について、昔から語られ、今も地元で大切に伝えられている伝説(紙芝居『まんだらさん石』おはなしポケット再話)があります。どんなお話しでしょう。高良内の自然を目に浮かべながら想像を交えてお話ししましょう。

          

 古代、高良山には高良の神様、高良大明神が住み、人々に敬われていました。そこに、仏教が伝わって、高良の神様は仏教に帰依しました。それからずっと時代によって変遷はありましたが、高良山神仏習合(日本固有の神の信仰と仏教信仰とが折衷融合していること)の山として栄えました。

 神仏習合の時代になってから、高良山にはお寺や僧坊がたくさん建ち、多くのお坊様たちが暮らすようになりました。それで、お坊様たちの衣や仏壇の飾り布が必要となり、そしてまんだら(曼荼羅。諸仏や菩薩などを網羅して、悟りの世界を象徴するものとして描いた図)も織られることとなりました。

しかし、まんだらを織る高い技術をもった織子は、高良山の近辺にはおらず、遠いところから来ていました。ある時は、優れた技術を持つ朝鮮や大和の方からも来たということです。織子たちはみな若い女の子で、一生高良山の織子として暮らすよう連れて来られていたのでした。高良山と明星山の間に粗末な小屋が建てられ、そこで毎日まんだらを織って過ごしていました。あたりは家もまばらで、めったに人も通りません。

 キートン パタリ 

 キートン パタリ

機織り機の音が谷間に響くばかりでした。寺からときどき食べ物が運んで来られていました。しかし、一日中働くと、若い織子たちはすぐにお腹が空きます。そっと山に出かけて木の実を採って食べたり、谷川の水をすくって飲んだりしました。毎日機を織る手は赤くはれ、ひびわれて水もしみました。

ある時、村人が機織りの音に引かれて、そっと様子を見に来ました。

「みんな痩せてしもうて、青白か顔ばして、食べるもんの少なかやろ。それにあげん薄着で、山ん中じゃ寒かろ」

それから時々、村人たちは食べ物や着物を持って行ってやるようになりました。土地の言葉が通じない織子たちは、思うようには話せませんでしたが、いつも笑顔でうなずきました。

 しかし、どんなに村人に親切にされても、織子たちは故郷が恋しくたまりませんでした。織子たちは高良山や明星山の彼方の空を眺めては、故郷を想うのでした。まんだらに描く浄土こそが故郷のように思われました。そして、慈愛に満ちた仏様の中にやさしかった母の姿を見ながら毎日まんだらを織るのでした。

まんだらは出来上がると、お寺に持って行かれてしまいます。織子たちは、せっかく祈りを込めて織ったまんだらの代わりに、一つの丸い石を見つけ、まんだらに見立てて祈りました。その姿を見て、村人たちは、かわいそうに思いました。

「織子たちは、帰りたかかつよね。国ば想うて、あん石ば拝みござっとよ」

 「あん石は、まんだらん代わりたいね。まんだらさん石ったい」

 それから年々まんだらさん石に祈る織子たちの数が減っていくのに、村人たちは気がつきました。

 「機織りはきつかし、国は遠かで寂しかけん、病気になったったい。若かつに、こげんはよ次々に亡うなって、むごかこつ」

 村人たちは、織子の数が減るたびに、機織り小屋の近くに一つずつ塚を作って弔ってやりました。そして、とうとう織子は皆亡くなってしまい、塚だけが残りました。村人たちは、塚に登ったり、塚の上の木を折ったりすると、怪我をすると言い伝えて、それらを糸織塚と呼んで大事にしました。

 やがて機織り小屋もなくなり、織子たちが祈っていたまんだらさん石だけが残りました。村人たちは、見知らぬ土地で寂しく亡くなっていった織子たちを哀れに思い、お堂を建ててまんだらさん石を祀りました。そして、いつ頃からか、まんだらさん石に女の人が願いをかけると、かなうという評判がたつようになったということです。

 「かわいか娘ば授けてください」

 「息子によか嫁が来ますように」

 高良内の人たちは、まんだらさん石とともに、織子を七夕の織姫になぞらえて、機織りの筬をもち額に星を飾った織姫像、石の観音立像も祀って、今も花を供え、お参りし続けています。ぜひ一度高良内のまんだらさん石を訪ねてみて下さい。

 

         2019年8、9月

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久留米伝説めぐり No.22

            小僧さんとお不動さん  

       

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            不動明王心光寺境内)

 

 久留米には、寺町といって十七ものお寺が集まっている地域があります。その一番南の端に心光寺という浄土宗のお寺があり、そこに覚えの悪い小僧さんの伝説が伝わっています。秋のある日、訪ねてみました。寺町のお寺は、それぞれに個性があり、境内はいつでも開いているので、これまで何度も訪ねましたが、心光寺は初めてです。

 思い切って呼び鈴を鳴らすと、高齢のかくしゃくとしたご婦人が出てこられ、お寺の古い来歴について話して下さいました。ご住職の御母堂と仰って、何と九十六歳になられると知り、その記憶力とてきぱきとした応対に感心しました。境内にある大聖不動明王堂のお不動さんも歴史があると話して下さいました。早速お不動さんを拝ませていただきました。

 心光寺に伝わる小僧さんの話とお不動さん、何か関係があるのかもしれません。想像を交えながらお話ししましょう。

 

  心光寺境内の大聖不動明王堂の不動明王は、以前は今町(現中央町の一部、市役所西側から縄手にかけての地域))の神社に祭られていました。心光寺に遷ったのは、明治になって神仏分離令(1868年)が出た後のことです。それまでずっと今町で、城下の人々の信仰を集めていました。特に、元禄元年(1688年)第四代有馬藩主頼元の等身大の不動明王像が寄進されてからは、藩主御参詣の社として尊崇されていました。どうして藩主と同じ大きさの不動明王像なのでしょう。その背景には、第二代忠頼から三代頼利、四代頼元にいたるまで続いた藩の存亡に関わる難事がありました(「不動堂縁起」心光寺大聖不動明王堂説明書)。

 久留米藩は、元和7年(1621年)初代有馬豊氏丹波福知山から久留米城に入城したことに始まります。豊氏は二十一万石の領地経営を苦労しながら行いました。しかし、息子の忠頼は粗暴な性格の藩主で、参勤交代の途中家来に殺されてしまいます。後継ぎの長男松千代(四歳)も急死したため、御原郡小郡市)の大庄屋高松家の同じく四歳の男子を身代わりに立て、三代当主頼利として家督相続させました。頼利は家臣を慈しむ仁君で、筑後川の大石・長野堰もやり遂げましたが、十七歳で急死してしまいました(林洋海著『久留米藩』)。忠頼の二男頼元が四代藩主となり、次々に起こった難儀もようやく収まりました。

 頼元の生母貞昌院は、今町にあった不動社の不動明王をたいへん信仰しておりました。しばしばお参りしては、息子頼元の治政が平穏無事であることをお願いしていました。そして、ついに頼元と等身大の不動明王を寄進するに至ったのでした。不動明王とは、真っ赤な炎で煩悩を焼き尽くし、右手に持った剣で迷いを断ち切り、左手の綱で悪心を縛り、怖い顔にもかかわらず慈悲深く衆生を救ってくれる仏様で、一般にお不動さんと呼ばれ親しまれています。

その後、人と同じ背丈もある大きなお不動さんは、たくさんの人々から信仰されるようになり、色々な願を掛けに訪ねる人が後を絶ちませんでした。心光寺にいたお経をちっとも覚えられない小僧さんも、この今町のお不動さんに願掛けに行った一人でした。

昔、心光寺に、八歳になったばかりの男の子が城下の外れの山本町から修行に来ました。家は貧しい農家で、兄弟が多かったので、父親から口減らしのため小僧に出されたのでした。

「佐吉、お寺に修行に行ってくれんの。お前は、いつもぼーっとしておって、ほんに物覚えが悪かばってん、お経ぐらいは毎日あげとりゃ覚ゆるごつなろう」

母親は悲しくて、佐吉をじっと抱きしめ言いました。

「修行のきつかなら、いつでん帰ってきてよかよ。お前一人の食い扶持ぐらいは何とかするけんね」

佐吉が心光寺に行って三年が経ちました。朝早くから晩まで働きました。食事の用意、洗濯、何でも言われるままにしました。掃除も広い本堂から境内まで一人でやりましたが、いつもにこにこしていました。ところが、いつまでたってもお経は少しも読めるようになりません。皆、佐吉のことを馬鹿にしました。

「あいつは少し足らんごたる。何言われてもへらへらして」

和尚さんは、佐吉が一向にお経を覚えられないのに呆れました。

 「お前は、そいじゃあ、むぞかばってん坊主にはなれんぞ。今町のお不動さんなよう願いごつば聞いちくれるっちゅう評判じゃ。いっちょ二十一日ん間、願掛けして、行ばしてみんの」

 佐吉は、言われた通り、朝早く冷水を浴びる水垢離の行をした後、今町まで歩いて願掛けに行きました。ちょうど冬のことで、雪も積もって歩きにくくてたまりません。やっと着いてお不動さんにお参りしていると、時々願掛けに来ている人が声をかけてくれました。

 「小僧さんな何ば願掛けよらすとね。そげなん薄着で寒かろう。早よ、寺にお帰り」

ついに満願の二十一日目になりました。佐吉は、お不動さんの像の前に座ってお願いしました。

 「お不動さん、どうかお経ば覚ゆっごつならして下さい。お願いします、お願いしま・・・す、お願いし・・・・」

 佐吉は、寒さのあまり、ついウトウトして眠ってしまいました。すると、何と天から本物のお不動さんが目の前に下りてきました。真っ赤に燃える炎に包まれています。大きな目を見開いて、佐吉を睨みつけました。そして、右手の剣をさっと振り上げると、一瞬佐吉の口に突きこみました。

 「あっ」と佐吉が叫ぶや、お不動さんの姿は消えていました。

 お寺に帰った佐吉に、和尚さんが言いました。

 「佐吉、今日は満願の日じゃったな。どうじゃ。一ちょお経ばあげてみんね」

 皆、佐吉にお経があげられるわけがないと、くすくす笑いました。

 ところが、佐吉の様子がいつもと違います。本堂の阿弥陀様の前に座ると、一気にお経を唱え始めました。佐吉の口から、次から次によどみなく、お経が出てきます。和尚さんも皆も、ただただ驚くばかりでした。

 それからの佐吉は、以前のもの覚えの悪い佐吉ではなくなりました。難しいお経もどんどん覚え、皆馬鹿にするどころか、分からないことは何でも佐吉に聞くようになりました。

 その後、佐吉は京都の知恩院で修行に励み、立派なお坊さんになったということです。

 それにしても、佐吉がお経が読めるようになったのは、お不動さんのおかげだったのでしょうか。それとも、いつもにこにこして働く佐吉に奇跡が起こったのでしょうか。

         2019年、10,11月

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 久留米伝説めぐり No.23       

            荒(あら)籠(こ)に命を捧げた娘

                              

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        頼母荒籠記念碑(久留米市三潴町草場 天満宮境内)

 

 久留米の歴史は、筑後川との戦いの歴史であるといってもいいほど、どの時代も氾濫や日照りで苦しめられているようです。江戸時代寛文4~7年(1664-67年)の浮羽の五庄屋による水路開削の話は、今も小学校の教材に取り上げられていますし、帚木蓬生の『水神』には、その苦難が感動的に語られています。作品に登場する久留米藩普請奉行丹羽頼母(たのも)(1586-1681年)は、筑後川沿岸の治水、利水事業をいくつも行った優れた土木建築家です。三潴町の草場には、彼の名を付した頼母荒籠と呼ばれる石垣が明治までありました。荒籠とは円筒の籠に石を詰め込んだもので、それを組み重ねて水勢緩和のため河岸から流水中に突き出して築いた石垣のことでもあります。三百年以上も昔の土木技術でよくもこうした護岸工事ができたものと、本当に感心します。

 アフガニスタンの砂漠を潤した中村哲氏の山田堰のことを想い出しながら、草場を訪ねてみました。草場天満宮の入り口近くのお宅の古老の方にお尋ねすると、昔の記憶を呼び覚ましながら親切に教えて下さいました。現在氾濫防止のため広川草場地区築堤工事が行われているところに、以前は頼母荒籠跡という標識が立っていたそうです。子どもの頃はそこにじゅうごさん(龍宮様)と呼ばれる龍神を祀った神社、龍神宮があり、奉納相撲で大そう賑わっていたと懐かしそうでした。。現在、草場天満宮境内に龍神宮の石祠は移され、明治に建てられた頼母荒籠記念碑もあります。

 『三潴町史』に頼母荒籠の伝説が記されています。どんな話でしょう。想像を交えながらお話ししましょう。

 

 元和7年(1621年)、有馬豊氏久留米城に入城してから久留米藩が始まりますが、翌元和8年尾張国生まれの丹羽頼母は土木建築の手腕を買われ普請奉行を命ぜられ、豊氏に仕えることになりました。頼母は、藩内の治水、利水事業を積極的に推進し、筑後川沿岸の新田開発に大いに寄与しました。

 万治元年(1658年)の頃のことです。筑後川に広川が合流する草場あたりは、大きく蛇行していて、少し多い雨ですぐに洪水となってしょっちゅう田畑が流されていました。村人たちは、そこの川底には龍神、じゅうごさん(竜宮様)がすんでいて洪水を起こすと信じ、恐れていました。

 村人たちが、とうとうと流れる川を見つめながら心配していました。

 「今年もまたじゅうごさんが暴れらっしゃるとやろか。俺んとこの田んぼは、去年も一昨年も、水浸しじゃったもんの」

 「こげんいつも不作じゃ、食べていけん。ほんなこつじゅうごさんばなだむる方法はなかとやろか」

 じゅうごさんからほど近いところに田んぼをもつ五郎兵衛が、ため息をついて言いました。

「うちは年貢も納めきらん。娘のおみつが二十歳になったけん、奉公に出そうち思いよる」

 「おみっちゃんは、ほんなこついつも田んぼばよう手伝う働きもんばいねえ」

 丹羽頼母は、草場の百姓たちの窮状を知って、何度も視察に訪れました。そして、殿様から工事の許可を得ると、川の流れ、蛇行の具合、水深、工事方法などについてあれこれ考えました。

 「川がここで急に曲がっているため、流れが堤防に突き当たって氾濫するのじゃ。水圧をやわらげ、堤防が崩れるのを防ぐ方法はないものか。

岸から川の中に向けて石垣を突き出して築くといいかもしれん。だが、石はいくら重ねてもすぐに押し流されてしまうだろう。そうだ。荒籠、石を詰め込んだ円筒の籠で、水中に石垣を築けばいいのじゃ」

頼母は、役人を指導し、村人たちを集めて、工事に取りかかりました。村人たちは総出で、忙しい農作業の合間にじゅうごさんのいる岸に集まりました。

 「お奉行様は、あっちこっちに堰や荒籠ば造らっしゃった人じゃけん、きっとうまくいくばい」

 ところが、なかなかうまくいきません。じゅうごさん付近は川底が深く、荒籠が納まらないのです。それにせっかく組み重ねても、そこに大雨が降って押し流されてしまいします。まるで賽の河原で、村人たちもだんだん疲れてきました。

 頼母も、進まない工事に打つ手がなく、ふと冗談で言いました。

 「やっぱりここには龍神がすんでおって、荒籠なんぞ造るんで怒っておるのかなあ。いっそ人柱でも立てるか」

 これを聞いた村人たちは、その言葉を本気にしました。

「じゅうごさんの怒りばおさむるためには、人柱ば立てたがよか。明日の朝ここに全員集まって、着物の繕いに横布を使っておる者がおったら、そん者ば人柱に立てよう」

 翌朝、村人たちは皆集まって、互いに繕い方を調べました。横布を使って繕った着物を着ている者は見当たりません。誰も人柱に立ちたくないので、当然です。ところが、一人だけ横布で繕った者がおりました。五郎兵衛の娘のおみつです。五郎兵衛は絶句しました。

 「おみつ、何でお前...」

 「おとっつあん。うちは、みんなのお役に立てればよかとよ。きっとじゅうごさんの怒りは鎮まって、荒籠ができるばい。そしたら、草場の田んぼにも米が穫るるごつなるよ」

 おみつは、皆が悲しむ中、静かにほほ笑んで荒籠の底に沈み、人柱になったのでした。

 それからは、不思議なことに、雨もほとんど降らず、その間に荒籠を着々と築くことができました。村人たちは、おみつの献身にただただ感謝するばかりでした。頼母も、若い娘の健気な犠牲を哀れに思いつつもありがたく思いました。

 草場のじゅうごさんがあった辺りは、その後水害が少なくなり、米がよく獲れ、人々の暮らしもよくなったのでした。村人たちは、じゅうごさんを祀って、賑やかに相撲を奉納するようになりました。そして、頼母が苦心して造った草場の荒籠は、頼母荒籠と呼ばれ、明治21年(1888年)の筑後川改修工事まで200年以上もの間草場の治水に尽くしたのでした。きっとおみつが守り続けてくれたのでしょう。 

          2020年1、2月

                                  M.イイダ再話

         南吉朗読会協力

         久留米伝説めぐり:https://kurumedensetsumeguri.hatenablog.com/

 

 

久留米伝説めぐり No. 24

                                            トンコロリンのお地蔵さん

                                                     

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           通八町目の五地蔵尊久留米市東町)

 

 現在、新型コロナウイルスに世界中が感染され、日本では第一波はほぼ収まりつつありますが、これからまだ第二波、第三波が来る気配で、不安、緊張が続いています。明治の初め、久留米ではコロナではなく、コレラが流行って、その時の伝説が伝えられています。

 コレラはウイルスではなくコレラ菌によって発症する感染症で、1884(明治17)年R. コッホによってコレラ菌が発見されてから、爆発的な流行は起こらなくなっています。日本では、江戸時代の安政文久年間、明治初めの10年、12年に大流行を見ました。人気TVドラマ「仁」に出て来る江戸のコレラは、文久2(1862)年のものです。ドラマは、コレラに罹った江戸の人々を主人公が救うという話で、コレラの症状がリアルに描かれていて、真に迫っていました。

 明治10年コレラは、神戸、横浜、長崎に停泊船の船員から発生し、明治12年の大流行は愛媛から九州、西日本、さらに東日本に広がったということです(酒井シヅ『病が語る日本史』)。久留米の伝説に出てくる明治のコレラは、よく分かりませんが、明治12年のものではないかと思います。久留米では、コレラはどのように語り伝えられているのでしょう。想像を交えながら、お話ししましょう。

 

 コレラは、コレラ菌に汚染された水や食べ物が口から入って感染し、米のとぎ汁のような下痢と嘔吐を繰り返して、体中の水分が抜けて脱水状態となり、皮膚が乾燥し、意識がなくなり、死に至るという恐ろしい感染症です。コレラ菌が発見され、治療薬が開発されるまでは、三日ほどでコロリと死んでしまうので、コロリと呼ばれ、狐狼狸、虎狼痢という字が当てられていました。コレラの恐ろしさをよく伝えている当て字です。長崎では、鉄砲でトンと撃たれてコロリンと倒れるような病という意味で、トンコロリンと呼んでいたそうです。久留米の伝説でも、トンコロリンと呼ばれています。

 明治初年、久留米ではトンコロリンが大流行りで、人々は恐れて、家に引きこもっていました。久留米の中心部にある通八丁目でも、次々に死者が出ていました。病気の流行る前は賑やかだった通りも、人影はなく、棺桶を担いでいく葬式の列が時折過ぎていくぐらいなものでした。

 今日は、母一人子一人でつましく暮らしていた文吉が、トンコロリンで亡くなった母の棺の後を泣きながらついて行っていました。文吉のおっかさんは、ほんの三日前まで元気に仕立物をしていました。ところが、急に吐き気がして、嘔吐と下痢が止まらず、体がどんどん茶色になり小さくなって、あっという間に亡くなってしまったのです。

「おっかさん、おれは今日からひとりぼっちだ。どげんしたらよかやろ」

身よりのない文吉の姿を見て、近所の人たちは、可哀そうに思いました。

「誰か文吉ちゃんの面倒ば見ちゃる者なおらんとやろか。文吉ちゃんな、ほんなこつよか子ばってん」

すると、近くに住む宮崎さんが言いました。

「よかよ。うちにはばさらか子どもがおるけん、一人ぐらい増えてん、どうもなか」

 宮崎さんは、とても信心深い人で、神様や仏様にいつも手を合わせ、弱い者小さい者を大事にしていました。それで、トンコロリンで次々に人が亡くなり、文吉のようなみなしごが何人も出てくるのを可哀そうに思っていたのでした。

トンコロリンが早く収まるようにと願い、日夜神仏を拝んでいた宮崎さんの夢枕に、ある夜、お地蔵さんが現れました。

「わしは、東の方角の古井戸の底にもう何年も沈められたままじゃ。それで、お前たちがトンコロリンで難儀をしておるのを助けることができん。悲しいことじゃ。早く井戸から上げて、大勢の人の目につくところに祭ってほしい。そしたら、トンコロリンを治してやろう」

 宮崎さんは翌朝出かけて、古井戸を探しました。井戸はすぐに見つかりました。宮崎さんは、近所の親しい人に手伝ってもらい、井戸さらえをしました。梯子を下ろし、水を汲みだすと、底に首のない石のお地蔵さんが五体も見つかりました。辺りを探すと、頭もありました。

「むぞかこつ。こげん首ば落とされて」

「こりゃ、維新の時の応変隊の仕業にちがいなか。皆の話じゃ、応変隊は仏なんち馬鹿にして、首ば切り落として、井戸に放り込んだそうじゃけん」

応変隊というのは、幕末、久留米藩で結成された武士や農民からなる兵士の部隊で、戊辰戦争(1868-69)で活躍しますが、過激な尊皇攘夷思想をもち、乱暴狼藉を働いたため、地元の評判が悪かったと言われています。

 信心深い宮崎さんは、お地蔵さんと首を急いで引き上げました。そして、頭と胴を丁寧につなぎ合わせ、大急ぎで小さなお堂を建て、お祭りしました。それから家族、近所の人、皆でお参りしました。

「お地蔵様、どうかトンコロリンば治して下さい。皆が死なんごつして下さい」

宮崎さん家の一人となった文吉も、熱心に拝みました。

「お地蔵様、おっかさん。おれは、こげん元気です。おれんごつ皆ば元気にして下さい」

 皆の願いが届いたのか、不思議なことに、それからは新しい病人も死者も出なくなりました。そして波が引くように、トンコロリンは消えていきました。

 この後、このお地蔵さんにお参りする人は後を絶たず、久留米一の霊験あらたかなお地蔵さんとして崇められるようになりました。宮崎さんたちは、子どもの守り本尊である地蔵菩薩を奉る8月24日の地蔵盆には、お地蔵さんの前掛けを新調し、お供えをして、子どもたちの無病息災を祈りました。ひと頃は、打ち上げ花火まで上げられていたそうです。

 新型コロナウイルスも、通八丁目のお地蔵さんにお参りすると、効き目があるかもしれませんね。

        2020年6、7月

        M.イイダ再話

        南吉朗読会

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