久留米伝説めぐり

久留米に伝えられている様々な伝説を紹介

久留米伝説めぐり

 

『童話 ペストの村にヒースの花咲く』(飯田まさみ著、青山ライフ出版、2020年6月、税込み1100円)を出版しました。

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久留米伝説めぐり 15

            懐良親王、戦いの生涯

             

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             平礼石(千光寺参道入口)

 

 あじさいで有名な千光寺(久留米市山本町)の奥に、南北朝時代(1336~92)、南朝のため筑後一円で戦いの一生を過ごした懐良親王(?~1383)のお墓があります。小高いあじさいの丘を越えたところに、木々に囲まれてひっそりと立っています。周りには、忠臣たちのものと思われる幾つか墓石が並んでいます。久留米には、

山本を初め、宮の陣、高良山などあちこちに懐良親王の話が伝えられています。親王が手植えしたという宮の陣の将軍梅は、今も毎年咲いて人々の目を楽しませていますし、親王が忠臣と別れの水杯を交わしたという高良山奥の院の清水は、なお多くの参拝者たちの喉を潤しています。これほど筑後に深い縁をもつ懐良親王とは、どういう人なのでしょう。千光寺奥の御陵墓、将軍梅、高良山懐良親王との関わりを中心に、親王の戦いの生涯について、想像を交えながら簡単にお話ししましょう。

 

 日本歴史上、北朝南朝、二つの朝廷があり、二人の天皇がいて対立していた時代がありました。南北朝時代と呼ばれ、京都の北朝に対して、吉野の南朝後醍醐天皇(1288~1339)が治めていました。後醍醐天皇南朝の勢力を拡大するため、皇子たちを各地に派遣しました。皇子の一人懐良親王(?~1383)は、わずか八歳で九州制覇の命を受け、海路九州に向かいました。征西将軍宮として派遣された懐良親王は、南朝方の豪族、武将のもとに滞在し、伊予、薩摩、肥後、筑後と彷徨い、戦い続けました。

 南北朝の抗争のうちに、懐良親王はいつの間にか三十歳にもなっていました。

 「吉野に朝廷をつくられた父君はとうに亡くなってしまった。だが、我はいまだに戦いの日々を過ごしておる。何のための戦いであろうか。我らのために、土地は荒れ、民の苦しみはいつ終わるとも知れぬ。悲しいばかりだ」

 懐良親王は、荒れ果てたた田畑を黙々と耕す百姓に声をかけました。

 「せっかく実りつつあった稲が、先だっての戦いで不毛になってしまったな。申し訳ない。なおまた励むよう頼むぞ」

 人々は、親王の優しい言葉を嬉しく思いました。

 「親王さんな、子どもん頃から苦労ばせらしゃったけん、わしらの苦労がようわかるばい」

 そして、ついに正平(以下、南朝元号)14年(1359年)七月、大保原を戦場とする筑後川の戦いが始まりました。高良山一帯に陣を張っていた懐良親王は、菊池武光らとともに四万の軍勢を率いて、善道寺町辺りの筑後川で、北朝方の少弐頼尚(1293~1271))率いる六万の軍勢との間に戦いの火ぶたを切って落としました。懐良親王の軍は、川近くにも陣を張り、現在の宮の陣の地名の由来となりました。また、戦勝を祈願して植えた紅梅一株は、今も宮の陣神社境内に将軍梅として残ってます。この時、菊池武光(?~1373)が戦いの後血まみれの刀を洗い真っ赤に染めたのが、大刀洗川だという言い伝えは有名です。

 八月、激戦の末、南朝方千八百人、北朝方三千六百人という多くの戦死者を出して、南朝方が勝利をおさめました。真夏のことで、おびただしい死体は腐って異臭を放ちました。高良山のお坊さんたちが、それを集めて供養したのが、宮ノ陣五郎丸にある五万騎塚だそうです。

しかし、懐良親王は、落馬し三か所も深手を負ってしまいました。親王は辛うじて千光寺近くの谷山城に引き揚げ、手当を受けましたが、暑いさ中、甲斐なく、とうとう亡くなられてしまいました。せっかく勝利を収めた兵士たちに親王の死を公にするのは、士気を下げることになると、親王の亡骸は千光寺で密かに火葬され、塚が建てられました。現在も、懐良親王御陵墓として残っています。

ところが、不思議なことに、懐良親王は、正平16年(1361年)大宰府の征西府をとり戻し、それから十二年もの間九州の南朝は最盛期を迎えたのでした。もしかすると、懐良親王は重傷から回復し、生きて再び征西将軍宮として活動されたのかもしれません。文中元年(1372年)、大宰府征西府は、幕府によって派遣された九州探題今川了俊(生没年不詳)の攻撃を受け、南朝大宰府を失ってしまいました。親王は、またもや高良山、菊池、八女へと彷徨うことになりました。高良大社奥の院には、今も人々に飲まれている勝ち水と呼ばれる清水があります。親王が忠臣たちと湧き出る水で別れの水杯を交すと、敵の攻勢を逃れることができたと伝えられています。

戦いの日々、懐良親王は、土地を荒らし、民の平和な暮らしを乱しているという慚愧の念をいつも心に抱いていました。天授3年(1377年)親王は高良下宮社に参拝し、世の平穏安定を祈願して願文を奉じました。

「長きにわたる戦火によって民は苦しみ続けている。これは、すべて我の徳無きがためだ。ああ、我が過ちは悔いて余りあり、我が咎はどれほど謝っても足りない」

親王が人々と直接交わることはほとんどありませんでしたが、長い年月の間、親王の優しさ、深い思いは人々にいつしか伝わっていました。

「わしたちも田畑ば耕しては、荒らさるっばかりで、ほんなこつどげんもならん。ばってん、親王さんも、むぞかのう。はよう戦ん終らんかのう」

こうして、八歳から何と四十七年に及ぶ長い年月、処々方々を彷徨いながら戦いに明け暮れた懐良親王は、弘和3年(1383年)、とうとう病のため星野で亡くなられました。

親王のお墓とされるものは幾つかあります。千光寺のお墓は、お寺の上の山の方にあるので、人々は麓で平たい石に座ってお墓に向かいお参りしたということです。平礼石と言って、今でも参道の入り口にあります。やがては滅びるとわかっていながら、その運命を受け入れていく懐良親王の懸命で哀れな様は、人間の一生に通じるようで、今なお伝説が語り伝えられる理由なのかもしれません。

        2018年7,8月

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        南吉朗読会協力

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久留米伝説めぐり  No.16

 

                           小早川神社と八ツ墓

 八ツ墓というと、すぐに連想するのは横溝正史推理小説『八ツ墓村』ですが、久留米には実際に八ツ墓があります。お墓は元は西鉄久留米駅近くの日本生命ビル裏にあったのですが、現在は寺町の医王寺に移されています。ビルの裏には慰霊碑跡があり、説明板が建っています。ずい分前、八ツ墓という名に惹かれて、お寺もビル裏も訪ねたことがありますが、両方とも、名前のような不気味な雰囲気はなく、ほっとしたのでした。お墓には、戦国時代殺された高良山座主と家来たちが葬られているそうです。では、一体誰が殺したのでしょう。それは、篠山城址にある小早川神社と関係があります。小早川神社と八ツ墓、ふたつに関わる伝説を、想像を交えながらお話しましょう。

                                                       

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                                                  小早川神社(篠山城址内)

 

 今から四百年以上昔、戦国の世、筑後久留米の領主は毛利元就(1497-1571)の九男毛利秀包(1567-1601)でした。秀包は十七歳の時関白秀吉(1537-98)の人質となって大阪城に行き、秀吉の近習として可愛がられました。天正14(1586)年から翌年までの秀吉の九州征伐で大活躍し、筑後では豪族草野氏を攻め滅ぼし、秀吉から久留米の地を拝領しました。

 この時、三十五万もの大軍を率いて九州に乗り込んできた秀吉は、高良山の麓の𠮷見岳城に陣を構えました。高良山は、僧麟圭(?-?)が座主として君臨し、僧兵や武士千五百以人以上を従えていました。

 「高良山は、神功皇后にゆかりのある由緒ある神社と聞く。だが、今はこの日の本にわしより力のある者はおらぬ。高良山の座主の挨拶はまだか。さっさと来るように申せ」

 麟圭は、内心秀吉を馬鹿にしていました。

 「あの成り上がり者が。わしは、俗世の権力なんぞに負けんぞ。じゃが、面倒にならぬよう、ちょっと出かけるとするか」

 麟圭は、万が一を考え、鎧の上に僧衣を羽織って秀吉に会い、通り一遍の挨拶をしました。秀吉は、怒り心頭、直ちに高良宮の領地を取り上げ、秀包にやってしまいました。

 秀包は、久留米城(現在の久留米大学医学部付近?)を築き、住んでいました。そして、豊後のキリシタン大名大友宗麟(1530-87)の娘を妻にして、自らも受洗し、シメオンという洗礼名を授けられました。久留米にも神父が住み、信者がどんどん増えていました。

 村では、麦踏みをするとき、畦作りをするとき、ロザリオの祈りを唱える姿が見られるようになりました。また、農作業の合間には、神父の話に耳を傾けて、平安を得るようになりました。

 「関白様がおらんごつなって、静かになったばい。ばってん、領主様と座主様がえろう仲が悪か。また、戦がはじまるんじゃろか。領主様はわしらと同じようにデウス(神)様を信じとらっしゃるけん、戦はなかろうもん」

 秀包は、麟圭に手を焼きました。秀吉から信頼され、久留米領主となり、高良山まで与えられたのに、期待に沿えません。麟圭は、年貢も治めず、まったく言うことを聞こうとしませんでした。秀包は、何度も高良山を攻めましたが、地の利を知らないため、歯が立ちません。それで、麟圭の縁者を家臣にめとらせ、油断させるという策を講じました。

 天正19(1591)年5月13日、秀包は麟圭を城に招き、酒宴を開きました。麟圭は、息子の了巴(?-?)と六人の家来を連れ、やってきました。八人は手厚いもてなしを受け、満足して帰りかかった時、妙な気配を感じました。八人は、敵の目をくらまそうと、途中処々方々に馬を走らせました。しかし、秀包は、用意周到にどの帰り道にも家来を待ち伏せさせていました。麟圭たちは八人皆、馬にむち打ち、逃げ回りしましたが、無残に斬り殺されてしまいました。

 「あげん逃ぐるもんば、追い回しち、むごか殺し方ばい」

 「なんち、むぞなこつ」

 村人たちは、八人の遺体を集めてまとめ、もと高良山への古道筋に墓を建て供養しました。西鉄久留米駅近くの日本生命ビルの裏手になります。

 「秀包様はキリシタンでござらっしゃるのに、何であげなこつさっっしゃったかのう。デウス様は、人を殺すべからずち、戒めちおらるるがのう」

 「わしらは、デウス様ん教えば守らなばい。座主様たちが天国に行かるるごつ、祈ろう。そして、領主様ん罪ばわしらが償おう」

 八人を祀った墓のそばには玉椿が繁っていたため、玉椿の紋の献灯が下げられ、墓は玉椿社と呼ばれるようになったそうです(医王寺『八つ墓の由来』)。

 秀包は、秀吉が天正20(1592)年から慶長2(1598)年の間、二度にわたって行った朝鮮出兵で戦功をあげますが、慶長5(1600)年の関ケ原の戦いで西軍につき、敗北します。そして、久留米城も明け渡し、長門国(今の山口県の西部・北部)に改易され、翌慶長6年35歳で病没します。生まれは毛利氏ですが、兄小早川隆景の養子となったため、ずっと小早川姓を名乗っていました。ところが、関ケ原の戦いで隆景の養子小早川秀秋(1582-1602)の裏切りがあったことを快しとせず、元の毛利姓に戻ったのです。

 現篠山城址の広い庭の一隅に、秀包を祀った小早川神社があります。小さな古い石の祠です。神社名は、久留米時代の秀包の姓に従っているのでしょう。久留米城主であった頃、秀包は熱心なキリシタンで、教会堂を建て神父を招き、一時は領内に七千人の信徒がいたと言われています。そして、伴天連追放令天正15年秀吉が出した禁止令。キリシタンを禁じ、バテレンを国外追放にするという命令)が出た後も、まだ熱心に信仰を続けました(帚木蓬生『守教』)。

小早川神社の扉には、信心深かったというキリシタン秀包を表しているのでしょう。アンドレアス十字(キリスト教で用いられる十字架を模したシンボル)というX字型の十字が刻まれています。そして、その上に、神社の幣が飾られています。苔むした祠に揺れる幣の白さを見ると、謀略で麟圭たちを斬殺した秀包の残酷さもすべて浄化されたのだと思えてきます。村人たちが建てた八ツ墓は、現在、寺町の医王寺に移されています。立派な自然石の墓には、今も花が手向けられ、寺にはたくさんの椿が咲いています。八人の霊もまた、争いを遥かに超えて慰められているのでしょう。

         2018年9,10月

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久留米伝説めぐり  No. 17  

                                久留米のマリア観音

                          

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                                            慈母観音像  (成田山 久留米 分院)

 

 久留米市街から国道三号線で南へ向かうとほどなく、大空を背にひときわ高くそびえ立つ白い観音像があります。成田山分院の慈母観音像(高さ62メートル)です。建てられてまだ三十六年ばかりの新しいもので、当初はその高さに驚かされましたが、今では久留米の名所といった感じになっています。赤ん坊を抱いた優しい姿には、心が癒されます。初めて見た時、何となく聖母マリア様かと思いましたが、よく見ると観音様でした。しかし、見間違ったのも無理からぬことで、潜伏(隠れ)キリシタンの時代、信者たちが密かに祈りをささげていた慈母観音像があったのですから。それは、マリア観音と呼ばれています。実は、久留米にもマリア観音像が本町の無量寺というお寺にかつてあって、信仰されていたという伝説があります。どんな話でしょう。想像を交えながら、お話ししましょう。

 関ケ原の戦い(1601)前後、筑後キリスト教信仰が盛んでした。九州征伐(1586-87)の功により秀吉から久留米を拝領し、久留米城を築いて住んだ毛利(小早川)秀包(1567-1601)は、自身も熱心なキリシタンでした。秀包は、豊後のキリシタン大名大友宗麟(1530-80)の娘、桂姫を妻に迎えていました。『フロイス日本史』(1549年以降のキリスト教布教史)の著者として有名なルイス・フロイス神父(1532-97)が息子元鎮の洗礼のため久留米を訪ねたこともありました。久留米には、伝道所や天主堂、教会が建てられ、最盛期には信者が七千人もいたと言われています。しかし、関ケ原で豊臣方についたため、秀包は改易され、ほどなく病没します。

 秀包の後、慶長6年(1601年)筑後の領主となった田中吉政(1548-1609)は、キリシタンにきわめて寛容で、保護していました。キリシタンを苦しめる者は罰し、彼が住む柳川城下には教会が建ち、キリシタンによって西洋音楽や美術が伝わっていました。

 秀包、吉政の頃、キリスト教を取り巻く環境は厳しくなる一方でした。天正15年(1587年)、豊臣秀吉バテレン追放令を出して、禁教政策を推進していました。江戸幕府もその方針を引き継ぎ、慶長17年(1612年)幕府直轄領に、翌年全国に禁教令が出され、寛永14年(1637年)から翌年にかけて島原の乱がおこりました。貧しいキリシタンの百姓たちが厳しい弾圧と重税に対して天草四郎(1621-38)を頭に原城に立てこもって戦ったのです。乱は治まりましたが、この後、江戸時代の間中ずっと踏絵や宗門改めなどが徹底され、キリスト教信仰は、明治まで潜伏キリシタンの人々によって細々と存続しただけでした。

 バテレン追放令や禁教令のもとで、秀包や吉政のキリスト教に対する熱心さや好意は、勇気ある行動でした。田中家は、慶長14年(1609年)吉政が亡くなり、間もなく嫡男忠政が急死し、廃絶しました。

そして、元和6年(1621年)福知山の有馬豊氏(1569-1642)が久留米藩主となりました。島原の乱の時には、豊氏、忠頼(1603-55)父子も出陣し、七千人以上もが出兵し、千二百人からの犠牲者が出たということです。有馬氏は幕府の政策に従って、厳しい禁教を行いました。しかし、秀包、吉政の時代に植え付けられたキリスト教信仰の根は、たやすく断ち切られるものではありませんでした。

城中に住む侍に一人のキリシタンがおりました。侍は、三十センチくらいの小さな観音像を毎日オラショキリシタンの祈り)を唱えながら拝んでいました。

「わしが拝んでいる観音様は、慈悲の心で子どもを見守る観音菩薩様ということになっておるが、じつはマリア様じゃ。菩薩様と同じように、赤ん坊を抱いておられるが、顔かたちや髪形をよう見たらマリア様だとわかるだろう。見つかったら、火あぶりか磔だ」

侍はどうしたらいいか悩みました。

「町でも村でも、隠れているキリシタンを見つけようと厳しい取り調べがあっておる。イエズス様のお顔を踏まされたりして。密告した者には褒美の金も出るという。やはりマリア様を持っていては危ない。

そうだ。奥女中の桔梗殿は、昔からの知り合いだ。灯台元暗しというから、城の奥の方が、あんがい安心かもしれん。安産と乳授けの観音様じゃと、桔梗殿には言おう」

桔梗は、マリア様とは疑いもせず、侍の頼みを引き受けました。

「よかですよ。優しかお顔の観音様ですね。おなごが拝めば、余計ご利益があるっでしょ」

ところが、その後キリシタン探しはますます厳しくなっていきました。桔梗は、預かった観音様を日々眺めているうちに、だんだん不安になってきました。

「この観音様は、マリア観音やなかやろか。見つかったら、どげんしよか。

そうそう。知り合いの無量寺さんに預かってもらおう。あそこのお坊様は心の広かお方んごたる。安産と乳授けの観音様だと言うたら、気持ちよう引き受けてくださるやろう」

桔梗は、こっそり観音様を抱えて無量寺に持っていきました。無量寺の住職は、何も疑わず、気持ちよく引き受けてくれました。

「優しいお顔の観音様じゃ。お堂にお祭りしてあげよう」

やがて赤ん坊を抱いた観音様を拝もうと、たくさんの女の人たちが無量寺を訪れるようになりました。

「うちは、ずーと子どもに恵まれんやったばってん、あん観音さんにお参りしたら、えろう安産で生まれたつよ。ありがたかこつ」

「うちは、お乳が出らんでね。産まれてからずっとお腹をすかせて泣いてばかりやったんよ。ばってん、無量寺の観音様に毎日お参りしよったら、よう出るごつなったつよ。そいけん、今日は、お礼にこん乳首ばお堂に下げに来ましたったい」

赤ん坊を抱いたその女の人は、観音様に自分で作った、丸い乳首のついた布の乳房をお供えしました。こうして、お堂の観音様の前は、手作りの乳首でいっぱいになりました。

 その後、キリシタン禁制の長い江戸時代、そして明治になって禁制が解かれた後も、観音様は、長い間、多くの人々の信仰を集めたということです。ところが、残念なことに、昭和二十年(1945年)の久留米空襲で無量寺も爆撃を受け、、安産と乳授けの観音、実はマリア観音は焼失してしまったそうです。今は伝説としてのみ残る無量寺マリア観音。その言い伝えの背後には、久留米の潜伏キリシタンの歴史が垣間見えます。 

       2018年11,12月

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  久留米伝説めぐり No.18

                   虫追い祭りの大合戦

                                   

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                                 虫追い祭りの馬(益永選果場)

 

  田主丸に虫追い祭りという稲の害虫を追い払う祭りがあります。江戸時代から三百年以上も続くもので、現在は三年毎に開かれているそうです。六年前に一度見物に行ったことがあります。大勢の若者たちが鉦や太鼓の囃子に合わせ、武者姿の二つの藁人形を戦わせる勇壮な祭りです。高さ三メートルばかりの人形が相手を倒そうとしますが、傍にやはり藁で作った大きな黒い馬がいて戦いの邪魔をするので、なかなか勝負がつきません。馬だけは祭り後もとっておかれていると聞き、今年のお正月明け、馬のある(いる?)益永選果場(久留米市田主丸町)に行ってみました。親切な園芸流通センター(うきは市吉井町)の方がわざわざ連れていって下さいました。真っ黒な胴体の馬が座っていました。二人の武者と馬が主役の祭り、どういう謂れがあるのでしょう。想像を交えながらお話しましょう。

 

 今から八百年以上昔、平安時代末期のことです。栄華を誇った平家は、清盛没後勢力は衰えるばかりで、源氏に負け続けていました。寿永2年(1183年)俱利伽羅峠(富山県と石川県の県境)の戦いで源氏の木曽義仲(1154-84)に大敗し、加賀の国篠原(加賀市篠原町)に陣をしいて義仲軍に向かいました。次々に敗走する平家軍の中に、勇名を馳せてきた武将斎藤別当実盛(1111-83)がおりました。実盛は齢七十を越えた老齢の身でしたが、黒々とした髪で錦の直垂を着た若々しい姿で、ただ一騎踏みとどまって戦い続けていました。

 義仲の家来でまだ二十二、三歳の手塚太郎光盛(?-1184)は、自分が名乗っても実盛は名乗ろうとしないのを不思議に思いながら、懸命に向かっていきました。実は、実盛は光盛の母の仇で、光盛が成長した暁には討たれてやろうと思っていたのです。若い光盛に攻められ、実盛のまたがっていた馬が稲の切り株に躓いてしまいました。落馬して倒れた実盛は、光盛に首をとられてしまいました。

義仲は、昔幼い頃実盛に命を助けられ、それを忘れていませんでした。実盛の首を見せられた義仲は、黒い髪ではあるが実盛ではないかと思い、首を洗わせました。すると白髪頭の老人の実盛でした。義仲は、命の恩人を討ちとってしまったことを嘆き、光盛は主人の恩人の首をとったことを悔やみました。

 この実盛をめぐる義仲、光盛の話は、『平家物語』、『源平盛衰記』、文楽、歌舞伎などで流布されて、江戸時代には人口に膾炙していたようです。芭蕉(1644-94)も、元禄2年(1689年)『奥の細道』行脚の途中この地に寄って、「むざんやな 兜の下の きりぎりす」という句を詠んでいます。筑後でも、芝居や物語で、老いてなお戦う実盛の姿に触れ、人々は心を打たれていたことでしょう。

文楽や歌舞伎の話が流布して人々を楽しませていた一方、江戸時代は、ウンカやイナゴといった害虫によって稲の収穫が減り、困っていた時代でもありました。享保17年(1732年)の飢饉では、特に西日本で害虫が異常発生しました。ウンカは、稲の実(さね)につくため、文楽、歌舞伎で馴染みの斎藤実盛の名から実盛虫と呼ばれるようになっていました。

 どうにかして虫を追い払うことはできないものか。各地で、害虫退治と五穀豊穣を願って虫追いの行事が見られるようになりました。ウンカつまり実盛虫を追う儀式、祭りです。筑後でも虫追い祭りが行われるようになりました。

 「こげん虫ばっかりふえておおごつばい。どげん米が穫れんでちゃ年貢の取り立ては厳しかもんねえ」

「実盛虫ち言うとは、あん芝居の実盛さんが稲ん株につまづいたけんやろ。実盛さんな稲ば恨まっしゃって、虫になったとばい」

 「実盛さんな木曽義仲がこまか時命ば助けたり、光盛さんに仇ばうたせちやろうとしたりしたとたい。そげなん情け深か実盛さんが、稲の害虫になったっちゃ、むぞかなあ」

 「よかこつのある。実盛さんの人形ば作って、それに害虫の霊ば封じ込めて、光盛さんに追い払うちもろたら、どげんやろ」

 「実盛さんも光盛さんに追い払うてもろたら、本望じゃろう」

 田主丸の人々は、藁で実盛と光盛、さらに実盛の愛馬の人形を作りました。人形を掲げて神社に参拝した後、鉦や太鼓を鳴らしながら村を練り歩き、二つの人形を戦わせるのです。馬も実盛を助けようと、戦いの邪魔をします。最後は、実盛は負けて、かがり火の中に投げ込まれてしまいます。光盛は、刀折れ矢尽きた姿で、村の入り口に立って、再び害虫が入って来るのを防ぐのでした。

 全国あちこちに伝わる虫追い祭り、それぞれ違いはあるようですが、田主丸の虫追い祭りは、実盛と光盛の合戦が迫力あり、大いに見ごたえがあります。特に、夜には松明をともして巨勢川で戦うらしく、一度見てみたいものです。

 それにしても、加賀の国の実盛と光盛の戦いが遠い筑後の野でくり広げられていることには、ほんとうに驚かされます。江戸時代は、文化の伝播力が相当に大きかったというべきなのでしょう。、源平合戦を基にした歌舞伎や文楽などが一般に楽しまれ、それを題材にして、虫追い祭りのような民俗的行事が生まれたのですから。

 祭りの時、見物人たちはいつのまにか本来害をなし退治さるべき実盛も応援しているのは、不思議です。実盛は害虫にされて、どう思っているのでしょう。幼い義仲を助けたり、光盛に名乗らず仇をとられてやろうとしたりして、慈悲心に溢れた実盛ですから、害虫になって人々に追い払われてやることぐらい、それで稲がよく実るようになるのであれば、構わないのかもしれませんね。

        2019年、1,2月

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久留米伝説めぐり   No. 19

          不思議な夢、朝日の子

 

                     

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            神子栄尊禅師座像(朝日寺)        

 

 鬼夜で有名な玉垂宮近くの広川沿いに夜明山朝日寺(ちょうにちじ)(大善寺町夜明)という古刹があります。お寺の固有名詞にしては普通名詞っぽい名前ですが、『歴史散歩No.2』(久留米市文化財保護課発行)によれば、鎌倉時代13世紀半ばの創建で、古い伝説の伝わる由緒ある寺です。平家とも関わりがありそうだというので、梅のほころぶ二月のある日、訪ねてみました。

 寺を開いた神子栄尊禅師の座像を見せて頂こうと、思い切って呼び鈴を押すと、

ご住職が出てこられました。そして、新築間もない本堂に通され、伝説や臨済宗

話などいろいろと聞かせて下さいました。帰りには、丁寧に御下がりのお菓子まで

頂き、大いに感激しました。

 親切なおもてなしがうれしい朝日寺、ここにはいったいどんな話が言い伝えられて

いるのでしょう。想像を交えながら、紹介しましょう。

 

 平安時代の終わりごろ、平清盛(1118-81)の率いる平家が栄耀栄華を誇っていました。その驕り高ぶりが日に日にひどくなって、目に余るようになり、ついに平家一門の中からも平家転覆を図る者たちが出てきました。治承1年(1177年)都の西、鹿ケ谷の山荘でその陰謀がめぐらされましたが、発覚して、俊寛僧都(?~1179)、藤原成経(?~1202)、平康頼(?~1220)ははるか薩摩の沖に浮かぶ絶海の火山島鬼界ヶ島(現在の鹿児島県薩南諸島の一つ)に流されました。

 平康頼は平家の武士で、流罪の途中出家するほど信心深く、鬼界ヶ島でも岩山に熊野権現を祭り、千本の卒塔婆に歌を書きつけ、都に届くよう祈りを捧げました。そして奇跡的なことに、その内の一本が、厳島に流れ着き、ついに清盛の手に渡りました。清盛は、高倉天皇の后となった娘徳子の安産のため大赦を行い、成経と康頼は許され、都へ帰ることになりました。

 康頼は、鬼界ヶ島流罪中衣食を送り助けてくれていた平教盛(清盛の弟、1128~85)の領地肥前国鹿瀬荘(佐賀市嘉瀬町周辺)に寄り、しばらく滞在し休養をとりました。筑後川沿いには、平家が推進していた日宋貿易の拠点があり、三潴にはそれで富を蓄え、三池長者と呼ばれていた藤吉種継がいました。

 康頼は、ある時一人さまよい歩くうちに、三潴の霰川(現在の広川)までやってきました。ほとりに、小さなお堂があります。

「こんなところに、お堂とは。ちょっとお経を唱えていこう」

 お堂の中には、観音様が祭られていました。念仏を唱え、お堂を出た途端、びっくりしました。入り口に、観音様が立っていたからです。しかし、よく見ると人間の娘で、そのあまりの美しさに康頼は見間違ったのでした。康頼はたちまち魅了されてしまいました。

 「わしは、平康頼と申す者だが、驚かせてしまったようだな。この近くに住んでおられるのか」

 「はい。私は藤吉種継の娘千代と申します。朝昼、この観音様にお参りしております」

 「種継の姫でござったか。種継の名は、よく知っておる。ちょっと寄って参ろう」

 千代姫は信仰一筋で、どんな縁談にも見向こうとせず、観音参りに明け暮れていました。 お参りの途中、田畑を耕す村人たちをねぎらい、小昼を差し入れたりしていました。

 「ほんなこつやさしか姫さんじゃ。観音さんのごたる。長者どんがどこにも嫁に出したがらんのも無理なかばい」

 「こん前は、京の御所から差し出せと迎えに来た者を、長者どんな人間ば焼くときの臭いのするツナシ(ニシン科の魚)を焼いて、娘の火葬だと言って騙したそうな。そいからわしたちは、ツナシば子の代わり、コノシロと呼んでおるんじゃ」

 「わしらも、姫さんにはいつまでも三潴におってほしかあ」

 お堂から聞こえていた康頼のお経の声の美しさにうっとりとしていた千代姫は、お堂から出てきた康頼を一目見た途端、その気品あるたたずまいに惹きつけられ、いそいそと父のもとに連れていきました。

 種継は驚きましたが、丁寧にもてなし、泊めました。 しかし、実のところ、種継はいくら赦免されたとはいえ、清盛の手前、罪人であった康頼を歓迎はしておりませんでした。その夜、千代姫は朝日を飲み込むという不思議な夢を見ました。翌朝、康頼は去りがたい思いを抱きながら帰っていきました。

それからしばらく経って、千代姫は男の子を生みました。種継は、赤ん坊が口から光を出しているのを見て驚き、平家の罪人であった康頼の子にちがいないと思いました。そして、咎められることを恐れ、近くの草むらに捨ててしまいました。村人たちは、口から光を出す子どもに恐れをなして、可哀想に思いつつ遠巻きに囲んでいるばかりでした。

「こげなんところに捨てられて、むぞかのう」

「口から光ば出しとる子どもちゃ、初めて見たばい」

そこに山本の永勝寺の元琳和尚が通りかかりました。和尚は、赤ん坊を寺に連れて帰りました。千代姫は子どものことが心配で、家を出ると、和尚に願い、一生永勝寺で過ごしたということです(西原そめ子『筑後の寺めぐり』)。和尚に口光と名付けられた赤ん坊は利発で、修行を積み、宋にまで留学し、後に神子栄尊禅師という禅宗の立派な僧となりました。そして、各地に禅寺を開き、生まれた三潴の地には、母が懐妊の時見た夢に因んで名づけられた朝日寺を建てました。

平康頼は、子どもが生まれたとは知らないまま都に帰り、折に触れ千代姫のことを懐かしく思い出したのでした。信心深い康頼は、仏教説話集『宝物集』を書き、鬼界ヶ島に一人残され亡くなった俊寛を供養し続けたということです。

素朴なたたずまいの久留米のお寺に、『平家物語』の中でも有名な鬼界ヶ島の話に関わる伝説が伝わっているとは、驚かされ、感動させられます。

         2019年、4,5月

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   久留米伝説めぐり No. 20

                        月の神様、眼の神様

         

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           月読神社(久留米市田主丸東町)

 

 七、八年前、田主丸の月読神社(田主丸町田主丸東町)を訪ねたことがあります。近所の方から、眼の神様として有名で、毎年一月の二十三日から二十五日まで三夜様という大祭が催され、眼病平癒を願って大勢の人が参拝に訪れると聞き、興味深く思ったからです。天照大神の弟で月の神様である月読命が、眼病を治すとはどういうことでしょう。鳥居の左右の石灯篭の上にも、そして狛犬の左右の石灯籠の上にも、月の神の使いである兎の像があったのが、印象的でした。最近、再び訪ね、境内の横に住んでおられる宮司さんから、車で数分ほどの二田というところにも月読神社があり、そこが元であるとお聞きしました。行ってみると、二田地区の公民館と同じ敷地内にある小さな神社でした。どうして田主丸に二つも月読神社があり、眼の神様として信仰されるようになったのでしょう。それについては、由緒や伝承がいくつか残っています(『田主丸郷土史研究 第二号』)。想像を交えながらお話ししましょう。

 

 戦国時代、御原郡(主として現在の小郡市)に高橋城というお城があり、高橋長種というお殿様が住んでおりました。長種は、城の守護神として月読命を城内に祭っていました。

 ある時、長種は重い眼病に罹り、日に日に視力が衰えてほとんど物が見えないほどになってしまいました。眼に効くという薬をあれこれ試しましたが、いっこうに良くなりません。あちこちのお寺や神社にも詣でましたが、効き目がありません。

「そうだ。城に祭っている月読命にまだお願いしていなかった。月読命は月の神様だ。月が夜を照らすように、もしかしたら眼の見えぬ私の暗い世界を照らして下さるかもしれぬ」

 父の伊邪那岐命イザナギノミコト)が黄泉の国から帰って禊祓(神に祈って穢れ、災いを取り除くこと)をした時、左の眼を洗って生まれたのが日の神様天照大神で、右の眼を洗って生まれたのが月の神様月読命だったのです。

長種は、日夜月読命に祈りました。特に、月の出を待って願うと適うという二十三日の夜は、一心に祈願しました。

ある日、いつも通りお参りして、闇の中を手探りしながらお城に帰っていると、何かぼんやりと明るい光が見えます。

「あっ、光が見える。嬉しや」

思わず近づき触れると、それは、冷たく光る鏡でした。長種は、両手で持ち上げ、じっと見つめていました。ほどなく長種は、澄んだ鏡に映る自分の顔が見え始めました。

「ああ、見えた。見えた。ついに目が見えた。月の神様のおかげだ。月読命に感謝せねば」

 長種は、鏡をお城の月読神社に神霊として大切に奉納しました。やがて年が経ち、長種は病を得て、臨終間近になりました。いつも信仰していた月読神社のことが気がかりだった長種は、弟の次郎三郎に言いました。

 「今は戦国の乱世だ。この城もいつ攻められるか分からぬ。月読神社も危険に陥ろう。わしには子がないので、お前に頼む。

遁世して、神社の御神霊(神鏡)を大切にいただいて、国のあちこちを回り、御神霊にふさわしい地を探してほしい。よい地を見つけたなら、そこに社を建て、御神霊をお納めし、末永く仕えてくれ。そうすれば、わしもあの世で、安らかに眠ることができよう」

 次郎三郎は、遺言に従い、神霊を背負って国を巡りました。そして、竹野郡二田村(田主丸益生田二田)に着いた時、急に神霊が重く感じられました。そのため、足が前に進みません。

「ここだ。こここそ月読命の地だ」

 次郎三郎は、そこに小さな社を建て、神霊を安置しました。それは、天文三年(1534年)のことで、月の出を待って願い事をすれば適うという一月二十三日でした。

それから次郎三郎の子孫は、百年二百年と祖先の言い伝えを守り、月読命を深く信仰し続けました。やがて二田の小さな社の神様に、眼を治してもらおうと近くから遠くから人々がお参りに来るするようになりました。

「あん月の神様ば拝むごつなって、また縫物もできるごつなったつよ」

鷹取山(耳納連山の主峰)もかすむごつなっとったばってん、よう見ゆるごつなったたい。ほんなこつ嬉しか」

「わしは、病で全然見えんごつなっとった。昼も夜も同じ闇ん中におった。ところが、ある時、夢に月読の神様ん現れてっさい、二田までお祈りに行けっちゅうお告げがあったけん、ここまで連れてきてもろうた。お参りば続けよったら、二十日も経たんとに両目とも見ゆるごつなった。もう嬉しゅうて嬉しゅうて。遠かばってん、こうしてお礼参りに来よったい」

 寛延二年(1749年)には、柳川立花藩のお殿様が、眼を患った姫君のため柳川から代わりの使者をたて祈願させたということです。たくさんのお供え物を載せた車を仕立て参拝し続けたところ、姫の眼はすっかりよくなったのでした。

こうして月読神社の評判は高くなる一方で、隆盛を極めていきました。ついに田主丸の有志の人々の要請で、明治十三年(1880年)二田からやや離れたところにある馬場瀬神社(田主丸町田主丸東町)の境内横にも社殿が建てられました。これが東町の月読神社なのです。神社の宮司さんは次郎三郎の子孫だということです。

東町の月読神社には、今も眼病平癒の御利益を信じる人々が参拝に訪れ、毎年一月二十三日の大祭には、境内に植木市が立つほどの賑わいを見せ、地元の人々からは三夜様と呼ばれ親しまれています。何百年もの間、筑後の一隅で月の神様が眼の神様として人々の信仰を集めてきたとは、素朴に驚かされされますね。

         2019年6、7月

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   久留米伝説めぐり No.21

          まんだら織女とまんだらさん石

 

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         まんだらさん石(右端)を祀ったお堂

 

 高良内町というのは、高良山(標高312m)と明星山(標高362m)に抱かれた高良川に沿う静かな山間の町です。先日西鉄バス竹の子行きに乗って、初めて行ってみました。まんだらさん石の伝説を訪ねてです。その後、夜に高良川の上流にある蛍の名所親水公園も訪ね、ふわふわと飛ぶ蛍を楽しみました。まんだらさん石というのは高さ30センチくらいの丸い石で、竹の子バス停からほど近い井堀集落の民家の一角にある小さなお堂に祀られています。お堂には鍵がかかっていましたが、ガラス超しに一緒に並んだ機織りの筬を持った織姫像、それに観音様も見え、拝することができました。お堂の近くの個人宅の庭には糸織塚と呼ばれる大小の石もあるらしいのですが、伺えませんでした。このまんだらさん石や糸織塚について、昔から語られ、今も地元で大切に伝えられている伝説(紙芝居『まんだらさん石』おはなしポケット再話)があります。どんなお話しでしょう。高良内の自然を目に浮かべながら想像を交えてお話ししましょう。

          

 古代、高良山には高良の神様、高良大明神が住み、人々に敬われていました。そこに、仏教が伝わって、高良の神様は仏教に帰依しました。それからずっと時代によって変遷はありましたが、高良山神仏習合(日本固有の神の信仰と仏教信仰とが折衷融合していること)の山として栄えました。

 神仏習合の時代になってから、高良山にはお寺や僧坊がたくさん建ち、多くのお坊様たちが暮らすようになりました。それで、お坊様たちの衣や仏壇の飾り布が必要となり、そしてまんだら(曼荼羅。諸仏や菩薩などを網羅して、悟りの世界を象徴するものとして描いた図)も織られることとなりました。

しかし、まんだらを織る高い技術をもった織子は、高良山の近辺にはおらず、遠いところから来ていました。ある時は、優れた技術を持つ朝鮮や大和の方からも来たということです。織子たちはみな若い女の子で、一生高良山の織子として暮らすよう連れて来られていたのでした。高良山と明星山の間に粗末な小屋が建てられ、そこで毎日まんだらを織って過ごしていました。あたりは家もまばらで、めったに人も通りません。

 キートン パタリ 

 キートン パタリ

機織り機の音が谷間に響くばかりでした。寺からときどき食べ物が運んで来られていました。しかし、一日中働くと、若い織子たちはすぐにお腹が空きます。そっと山に出かけて木の実を採って食べたり、谷川の水をすくって飲んだりしました。毎日機を織る手は赤くはれ、ひびわれて水もしみました。

ある時、村人が機織りの音に引かれて、そっと様子を見に来ました。

「みんな痩せてしもうて、青白か顔ばして、食べるもんの少なかやろ。それにあげん薄着で、山ん中じゃ寒かろ」

それから時々、村人たちは食べ物や着物を持って行ってやるようになりました。土地の言葉が通じない織子たちは、思うようには話せませんでしたが、いつも笑顔でうなずきました。

 しかし、どんなに村人に親切にされても、織子たちは故郷が恋しくたまりませんでした。織子たちは高良山や明星山の彼方の空を眺めては、故郷を想うのでした。まんだらに描く浄土こそが故郷のように思われました。そして、慈愛に満ちた仏様の中にやさしかった母の姿を見ながら毎日まんだらを織るのでした。

まんだらは出来上がると、お寺に持って行かれてしまいます。織子たちは、せっかく祈りを込めて織ったまんだらの代わりに、一つの丸い石を見つけ、まんだらに見立てて祈りました。その姿を見て、村人たちは、かわいそうに思いました。

「織子たちは、帰りたかかつよね。国ば想うて、あん石ば拝みござっとよ」

 「あん石は、まんだらん代わりたいね。まんだらさん石ったい」

 それから年々まんだらさん石に祈る織子たちの数が減っていくのに、村人たちは気がつきました。

 「機織りはきつかし、国は遠かで寂しかけん、病気になったったい。若かつに、こげんはよ次々に亡うなって、むごかこつ」

 村人たちは、織子の数が減るたびに、機織り小屋の近くに一つずつ塚を作って弔ってやりました。そして、とうとう織子は皆亡くなってしまい、塚だけが残りました。村人たちは、塚に登ったり、塚の上の木を折ったりすると、怪我をすると言い伝えて、それらを糸織塚と呼んで大事にしました。

 やがて機織り小屋もなくなり、織子たちが祈っていたまんだらさん石だけが残りました。村人たちは、見知らぬ土地で寂しく亡くなっていった織子たちを哀れに思い、お堂を建ててまんだらさん石を祀りました。そして、いつ頃からか、まんだらさん石に女の人が願いをかけると、かなうという評判がたつようになったということです。

 「かわいか娘ば授けてください」

 「息子によか嫁が来ますように」

 高良内の人たちは、まんだらさん石とともに、織子を七夕の織姫になぞらえて、機織りの筬をもち額に星を飾った織姫像、石の観音立像も祀って、今も花を供え、お参りし続けています。ぜひ一度高良内のまんだらさん石を訪ねてみて下さい。

 

         2019年8、9月

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久留米伝説めぐり No.22

            小僧さんとお不動さん  

       

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            不動明王心光寺境内)

 

 久留米には、寺町といって十七ものお寺が集まっている地域があります。その一番南の端に心光寺という浄土宗のお寺があり、そこに覚えの悪い小僧さんの伝説が伝わっています。秋のある日、訪ねてみました。寺町のお寺は、それぞれに個性があり、境内はいつでも開いているので、これまで何度も訪ねましたが、心光寺は初めてです。

 思い切って呼び鈴を鳴らすと、高齢のかくしゃくとしたご婦人が出てこられ、お寺の古い来歴について話して下さいました。ご住職の御母堂と仰って、何と九十六歳になられると知り、その記憶力とてきぱきとした応対に感心しました。境内にある大聖不動明王堂のお不動さんも歴史があると話して下さいました。早速お不動さんを拝ませていただきました。

 心光寺に伝わる小僧さんの話とお不動さん、何か関係があるのかもしれません。想像を交えながらお話ししましょう。

 

  心光寺境内の大聖不動明王堂の不動明王は、以前は今町(現中央町の一部、市役所西側から縄手にかけての地域))の神社に祭られていました。心光寺に遷ったのは、明治になって神仏分離令(1868年)が出た後のことです。それまでずっと今町で、城下の人々の信仰を集めていました。特に、元禄元年(1688年)第四代有馬藩主頼元の等身大の不動明王像が寄進されてからは、藩主御参詣の社として尊崇されていました。どうして藩主と同じ大きさの不動明王像なのでしょう。その背景には、第二代忠頼から三代頼利、四代頼元にいたるまで続いた藩の存亡に関わる難事がありました(「不動堂縁起」心光寺大聖不動明王堂説明書)。

 久留米藩は、元和7年(1621年)初代有馬豊氏丹波福知山から久留米城に入城したことに始まります。豊氏は二十一万石の領地経営を苦労しながら行いました。しかし、息子の忠頼は粗暴な性格の藩主で、参勤交代の途中家来に殺されてしまいます。後継ぎの長男松千代(四歳)も急死したため、御原郡小郡市)の大庄屋高松家の同じく四歳の男子を身代わりに立て、三代当主頼利として家督相続させました。頼利は家臣を慈しむ仁君で、筑後川の大石・長野堰もやり遂げましたが、十七歳で急死してしまいました(林洋海著『久留米藩』)。忠頼の二男頼元が四代藩主となり、次々に起こった難儀もようやく収まりました。

 頼元の生母貞昌院は、今町にあった不動社の不動明王をたいへん信仰しておりました。しばしばお参りしては、息子頼元の治政が平穏無事であることをお願いしていました。そして、ついに頼元と等身大の不動明王を寄進するに至ったのでした。不動明王とは、真っ赤な炎で煩悩を焼き尽くし、右手に持った剣で迷いを断ち切り、左手の綱で悪心を縛り、怖い顔にもかかわらず慈悲深く衆生を救ってくれる仏様で、一般にお不動さんと呼ばれ親しまれています。

その後、人と同じ背丈もある大きなお不動さんは、たくさんの人々から信仰されるようになり、色々な願を掛けに訪ねる人が後を絶ちませんでした。心光寺にいたお経をちっとも覚えられない小僧さんも、この今町のお不動さんに願掛けに行った一人でした。

昔、心光寺に、八歳になったばかりの男の子が城下の外れの山本町から修行に来ました。家は貧しい農家で、兄弟が多かったので、父親から口減らしのため小僧に出されたのでした。

「佐吉、お寺に修行に行ってくれんの。お前は、いつもぼーっとしておって、ほんに物覚えが悪かばってん、お経ぐらいは毎日あげとりゃ覚ゆるごつなろう」

母親は悲しくて、佐吉をじっと抱きしめ言いました。

「修行のきつかなら、いつでん帰ってきてよかよ。お前一人の食い扶持ぐらいは何とかするけんね」

佐吉が心光寺に行って三年が経ちました。朝早くから晩まで働きました。食事の用意、洗濯、何でも言われるままにしました。掃除も広い本堂から境内まで一人でやりましたが、いつもにこにこしていました。ところが、いつまでたってもお経は少しも読めるようになりません。皆、佐吉のことを馬鹿にしました。

「あいつは少し足らんごたる。何言われてもへらへらして」

和尚さんは、佐吉が一向にお経を覚えられないのに呆れました。

 「お前は、そいじゃあ、むぞかばってん坊主にはなれんぞ。今町のお不動さんなよう願いごつば聞いちくれるっちゅう評判じゃ。いっちょ二十一日ん間、願掛けして、行ばしてみんの」

 佐吉は、言われた通り、朝早く冷水を浴びる水垢離の行をした後、今町まで歩いて願掛けに行きました。ちょうど冬のことで、雪も積もって歩きにくくてたまりません。やっと着いてお不動さんにお参りしていると、時々願掛けに来ている人が声をかけてくれました。

 「小僧さんな何ば願掛けよらすとね。そげなん薄着で寒かろう。早よ、寺にお帰り」

ついに満願の二十一日目になりました。佐吉は、お不動さんの像の前に座ってお願いしました。

 「お不動さん、どうかお経ば覚ゆっごつならして下さい。お願いします、お願いしま・・・す、お願いし・・・・」

 佐吉は、寒さのあまり、ついウトウトして眠ってしまいました。すると、何と天から本物のお不動さんが目の前に下りてきました。真っ赤に燃える炎に包まれています。大きな目を見開いて、佐吉を睨みつけました。そして、右手の剣をさっと振り上げると、一瞬佐吉の口に突きこみました。

 「あっ」と佐吉が叫ぶや、お不動さんの姿は消えていました。

 お寺に帰った佐吉に、和尚さんが言いました。

 「佐吉、今日は満願の日じゃったな。どうじゃ。一ちょお経ばあげてみんね」

 皆、佐吉にお経があげられるわけがないと、くすくす笑いました。

 ところが、佐吉の様子がいつもと違います。本堂の阿弥陀様の前に座ると、一気にお経を唱え始めました。佐吉の口から、次から次によどみなく、お経が出てきます。和尚さんも皆も、ただただ驚くばかりでした。

 それからの佐吉は、以前のもの覚えの悪い佐吉ではなくなりました。難しいお経もどんどん覚え、皆馬鹿にするどころか、分からないことは何でも佐吉に聞くようになりました。

 その後、佐吉は京都の知恩院で修行に励み、立派なお坊さんになったということです。

 それにしても、佐吉がお経が読めるようになったのは、お不動さんのおかげだったのでしょうか。それとも、いつもにこにこして働く佐吉に奇跡が起こったのでしょうか。

         2019年、10,11月

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 久留米伝説めぐり No.23       

            荒(あら)籠(こ)に命を捧げた娘

                              

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        頼母荒籠記念碑(久留米市三潴町草場 天満宮境内)

 

 久留米の歴史は、筑後川との戦いの歴史であるといってもいいほど、どの時代も氾濫や日照りで苦しめられているようです。江戸時代寛文4~7年(1664-67年)の浮羽の五庄屋による水路開削の話は、今も小学校の教材に取り上げられていますし、帚木蓬生の『水神』には、その苦難が感動的に語られています。作品に登場する久留米藩普請奉行丹羽頼母(たのも)(1586-1681年)は、筑後川沿岸の治水、利水事業をいくつも行った優れた土木建築家です。三潴町の草場には、彼の名を付した頼母荒籠と呼ばれる石垣が明治までありました。荒籠とは円筒の籠に石を詰め込んだもので、それを組み重ねて水勢緩和のため河岸から流水中に突き出して築いた石垣のことでもあります。三百年以上も昔の土木技術でよくもこうした護岸工事ができたものと、本当に感心します。

 アフガニスタンの砂漠を潤した中村哲氏の山田堰のことを想い出しながら、草場を訪ねてみました。草場天満宮の入り口近くのお宅の古老の方にお尋ねすると、昔の記憶を呼び覚ましながら親切に教えて下さいました。現在氾濫防止のため広川草場地区築堤工事が行われているところに、以前は頼母荒籠跡という標識が立っていたそうです。子どもの頃はそこにじゅうごさん(龍宮様)と呼ばれる龍神を祀った神社、龍神宮があり、奉納相撲で大そう賑わっていたと懐かしそうでした。。現在、草場天満宮境内に龍神宮の石祠は移され、明治に建てられた頼母荒籠記念碑もあります。

 『三潴町史』に頼母荒籠の伝説が記されています。どんな話でしょう。想像を交えながらお話ししましょう。

 

 元和7年(1621年)、有馬豊氏久留米城に入城してから久留米藩が始まりますが、翌元和8年尾張国生まれの丹羽頼母は土木建築の手腕を買われ普請奉行を命ぜられ、豊氏に仕えることになりました。頼母は、藩内の治水、利水事業を積極的に推進し、筑後川沿岸の新田開発に大いに寄与しました。

 万治元年(1658年)の頃のことです。筑後川に広川が合流する草場あたりは、大きく蛇行していて、少し多い雨ですぐに洪水となってしょっちゅう田畑が流されていました。村人たちは、そこの川底には龍神、じゅうごさん(竜宮様)がすんでいて洪水を起こすと信じ、恐れていました。

 村人たちが、とうとうと流れる川を見つめながら心配していました。

 「今年もまたじゅうごさんが暴れらっしゃるとやろか。俺んとこの田んぼは、去年も一昨年も、水浸しじゃったもんの」

 「こげんいつも不作じゃ、食べていけん。ほんなこつじゅうごさんばなだむる方法はなかとやろか」

 じゅうごさんからほど近いところに田んぼをもつ五郎兵衛が、ため息をついて言いました。

「うちは年貢も納めきらん。娘のおみつが二十歳になったけん、奉公に出そうち思いよる」

 「おみっちゃんは、ほんなこついつも田んぼばよう手伝う働きもんばいねえ」

 丹羽頼母は、草場の百姓たちの窮状を知って、何度も視察に訪れました。そして、殿様から工事の許可を得ると、川の流れ、蛇行の具合、水深、工事方法などについてあれこれ考えました。

 「川がここで急に曲がっているため、流れが堤防に突き当たって氾濫するのじゃ。水圧をやわらげ、堤防が崩れるのを防ぐ方法はないものか。

岸から川の中に向けて石垣を突き出して築くといいかもしれん。だが、石はいくら重ねてもすぐに押し流されてしまうだろう。そうだ。荒籠、石を詰め込んだ円筒の籠で、水中に石垣を築けばいいのじゃ」

頼母は、役人を指導し、村人たちを集めて、工事に取りかかりました。村人たちは総出で、忙しい農作業の合間にじゅうごさんのいる岸に集まりました。

 「お奉行様は、あっちこっちに堰や荒籠ば造らっしゃった人じゃけん、きっとうまくいくばい」

 ところが、なかなかうまくいきません。じゅうごさん付近は川底が深く、荒籠が納まらないのです。それにせっかく組み重ねても、そこに大雨が降って押し流されてしまいします。まるで賽の河原で、村人たちもだんだん疲れてきました。

 頼母も、進まない工事に打つ手がなく、ふと冗談で言いました。

 「やっぱりここには龍神がすんでおって、荒籠なんぞ造るんで怒っておるのかなあ。いっそ人柱でも立てるか」

 これを聞いた村人たちは、その言葉を本気にしました。

「じゅうごさんの怒りばおさむるためには、人柱ば立てたがよか。明日の朝ここに全員集まって、着物の繕いに横布を使っておる者がおったら、そん者ば人柱に立てよう」

 翌朝、村人たちは皆集まって、互いに繕い方を調べました。横布を使って繕った着物を着ている者は見当たりません。誰も人柱に立ちたくないので、当然です。ところが、一人だけ横布で繕った者がおりました。五郎兵衛の娘のおみつです。五郎兵衛は絶句しました。

 「おみつ、何でお前...」

 「おとっつあん。うちは、みんなのお役に立てればよかとよ。きっとじゅうごさんの怒りは鎮まって、荒籠ができるばい。そしたら、草場の田んぼにも米が穫るるごつなるよ」

 おみつは、皆が悲しむ中、静かにほほ笑んで荒籠の底に沈み、人柱になったのでした。

 それからは、不思議なことに、雨もほとんど降らず、その間に荒籠を着々と築くことができました。村人たちは、おみつの献身にただただ感謝するばかりでした。頼母も、若い娘の健気な犠牲を哀れに思いつつもありがたく思いました。

 草場のじゅうごさんがあった辺りは、その後水害が少なくなり、米がよく獲れ、人々の暮らしもよくなったのでした。村人たちは、じゅうごさんを祀って、賑やかに相撲を奉納するようになりました。そして、頼母が苦心して造った草場の荒籠は、頼母荒籠と呼ばれ、明治21年(1888年)の筑後川改修工事まで200年以上もの間草場の治水に尽くしたのでした。きっとおみつが守り続けてくれたのでしょう。 

          2020年1、2月

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         久留米伝説めぐり:https://kurumedensetsumeguri.hatenablog.com/

 

 

久留米伝説めぐり No. 24

                                            トンコロリンのお地蔵さん

                                                     

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           通八町目の五地蔵尊久留米市東町)

 

 現在、新型コロナウイルスに世界中が感染され、日本では第一波はほぼ収まりつつありますが、これからまだ第二波、第三波が来る気配で、不安、緊張が続いています。明治の初め、久留米ではコロナではなく、コレラが流行って、その時の伝説が伝えられています。

 コレラはウイルスではなくコレラ菌によって発症する感染症で、1884(明治17)年R. コッホによってコレラ菌が発見されてから、爆発的な流行は起こらなくなっています。日本では、江戸時代の安政文久年間、明治初めの10年、12年に大流行を見ました。人気TVドラマ「仁」に出て来る江戸のコレラは、文久2(1862)年のものです。ドラマは、コレラに罹った江戸の人々を主人公が救うという話で、コレラの症状がリアルに描かれていて、真に迫っていました。

 明治10年コレラは、神戸、横浜、長崎に停泊船の船員から発生し、明治12年の大流行は愛媛から九州、西日本、さらに東日本に広がったということです(酒井シヅ『病が語る日本史』)。久留米の伝説に出てくる明治のコレラは、よく分かりませんが、明治12年のものではないかと思います。久留米では、コレラはどのように語り伝えられているのでしょう。想像を交えながら、お話ししましょう。

 

 コレラは、コレラ菌に汚染された水や食べ物が口から入って感染し、米のとぎ汁のような下痢と嘔吐を繰り返して、体中の水分が抜けて脱水状態となり、皮膚が乾燥し、意識がなくなり、死に至るという恐ろしい感染症です。コレラ菌が発見され、治療薬が開発されるまでは、三日ほどでコロリと死んでしまうので、コロリと呼ばれ、狐狼狸、虎狼痢という字が当てられていました。コレラの恐ろしさをよく伝えている当て字です。長崎では、鉄砲でトンと撃たれてコロリンと倒れるような病という意味で、トンコロリンと呼んでいたそうです。久留米の伝説でも、トンコロリンと呼ばれています。

 明治初年、久留米ではトンコロリンが大流行りで、人々は恐れて、家に引きこもっていました。久留米の中心部にある通八丁目でも、次々に死者が出ていました。病気の流行る前は賑やかだった通りも、人影はなく、棺桶を担いでいく葬式の列が時折過ぎていくぐらいなものでした。

 今日は、母一人子一人でつましく暮らしていた文吉が、トンコロリンで亡くなった母の棺の後を泣きながらついて行っていました。文吉のおっかさんは、ほんの三日前まで元気に仕立物をしていました。ところが、急に吐き気がして、嘔吐と下痢が止まらず、体がどんどん茶色になり小さくなって、あっという間に亡くなってしまったのです。

「おっかさん、おれは今日からひとりぼっちだ。どげんしたらよかやろ」

身よりのない文吉の姿を見て、近所の人たちは、可哀そうに思いました。

「誰か文吉ちゃんの面倒ば見ちゃる者なおらんとやろか。文吉ちゃんな、ほんなこつよか子ばってん」

すると、近くに住む宮崎さんが言いました。

「よかよ。うちにはばさらか子どもがおるけん、一人ぐらい増えてん、どうもなか」

 宮崎さんは、とても信心深い人で、神様や仏様にいつも手を合わせ、弱い者小さい者を大事にしていました。それで、トンコロリンで次々に人が亡くなり、文吉のようなみなしごが何人も出てくるのを可哀そうに思っていたのでした。

トンコロリンが早く収まるようにと願い、日夜神仏を拝んでいた宮崎さんの夢枕に、ある夜、お地蔵さんが現れました。

「わしは、東の方角の古井戸の底にもう何年も沈められたままじゃ。それで、お前たちがトンコロリンで難儀をしておるのを助けることができん。悲しいことじゃ。早く井戸から上げて、大勢の人の目につくところに祭ってほしい。そしたら、トンコロリンを治してやろう」

 宮崎さんは翌朝出かけて、古井戸を探しました。井戸はすぐに見つかりました。宮崎さんは、近所の親しい人に手伝ってもらい、井戸さらえをしました。梯子を下ろし、水を汲みだすと、底に首のない石のお地蔵さんが五体も見つかりました。辺りを探すと、頭もありました。

「むぞかこつ。こげん首ば落とされて」

「こりゃ、維新の時の応変隊の仕業にちがいなか。皆の話じゃ、応変隊は仏なんち馬鹿にして、首ば切り落として、井戸に放り込んだそうじゃけん」

応変隊というのは、幕末、久留米藩で結成された武士や農民からなる兵士の部隊で、戊辰戦争(1868-69)で活躍しますが、過激な尊皇攘夷思想をもち、乱暴狼藉を働いたため、地元の評判が悪かったと言われています。

 信心深い宮崎さんは、お地蔵さんと首を急いで引き上げました。そして、頭と胴を丁寧につなぎ合わせ、大急ぎで小さなお堂を建て、お祭りしました。それから家族、近所の人、皆でお参りしました。

「お地蔵様、どうかトンコロリンば治して下さい。皆が死なんごつして下さい」

宮崎さん家の一人となった文吉も、熱心に拝みました。

「お地蔵様、おっかさん。おれは、こげん元気です。おれんごつ皆ば元気にして下さい」

 皆の願いが届いたのか、不思議なことに、それからは新しい病人も死者も出なくなりました。そして波が引くように、トンコロリンは消えていきました。

 この後、このお地蔵さんにお参りする人は後を絶たず、久留米一の霊験あらたかなお地蔵さんとして崇められるようになりました。宮崎さんたちは、子どもの守り本尊である地蔵菩薩を奉る8月24日の地蔵盆には、お地蔵さんの前掛けを新調し、お供えをして、子どもたちの無病息災を祈りました。ひと頃は、打ち上げ花火まで上げられていたそうです。

 新型コロナウイルスも、通八丁目のお地蔵さんにお参りすると、効き目があるかもしれませんね。

        2020年6、7月

        M.イイダ再話

        南吉朗読会

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